エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターと、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは大違い

2015-11-03 10:05:53 | アイデンティティの根源

 

 

 

 
特定の価値を選び、その価値のためには損も覚悟
  人間相手の仕事には、信頼がなくてはなりませんよね。 p116下から5行目から。    &nbs...
 

 

 

 

 Young Man Luther 『青年ルター』p.238の、第2パラグラフ 9行目から。

 

 

 

 

 

1528年、ルターはモーセ律法の「あなたのお父さんを敬いなさい」が、この諸侯たちにも当てはまるんだ、と言ったものだから、反乱禁止令も同然でした。ルターの言葉は、有名であると同時に無名です。「俗世の剣は、赤く血で染まらなくっちゃね、世間は、これからも悪でしょうし、悪でなければなりませんから」。これは、常識から考えても、ルターの政治哲学から見ても、もっともなことでした。ルターの政治哲学とは、権力にある諸侯は、国の中で1つの役割を果たすために生まれたというものです。ルターはキリスト者ですから、自分の天職を誤って用いることを禁止する決まりには従っていましたし、祈りに従わなければならないと言う点も、他の立場の人たちと同様でした。さもなければ、ルターも認めているように、「実りなき戦いを始める」ことになったかもわかりません。しかし、その場合でさえ、ルダは、たとえ、抗議を宣言されるような状況にあっても、従ってもらえたに違いありませんね。

 

 

 

 

 ここは、The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」とシンクロしますでしょ。ルターは専制君主のように命令したんじゃぁありません。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちのように、憲法も法律も無視して、法の支配を受けずにいたんじゃぁない。そんなことができるは、暴君と心のビョーキの人と、相場が決まってますから。

 ルターも、自分を超える神に従ってましたから、人々も同様に、神様に従った。それが結果として、ルターに人々が従ったことに繋がったわけですね。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが無理無理人々を支配しているのとは、基本が違います。

 

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いつでも何度でも大事な≪いまここ≫

2015-11-03 08:08:26 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
親替え=悪い良心→良い良心
  昨日のところ、苦難の神義論。東日本大震災を経験したものには、傾聴に値するところじゃぁ、ないですか? 1000年に1回、と言われる大災害も、慈しみ深い存在の大い...
 

 

 

 絆を結ぶためには、ひとりびとりが忠実に誠実になれるような、共通の価値が必要です。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p88の、10行目途中から。

 

 

 

 

 

それで、神様がシナイ山の上で、モーセから「民に話せと言われるのはどなたですか?」と問われたときに、神様が「私は≪いまここ≫にいる者です」と自己紹介してから、「『≪いまここ≫に生きている者』という名の神が、私をあなた達に遣わしたのです」と民に言いなさい、と教えました。この実存的な意味は、間違いなく、一神教の進歩的発展にとって、極めて大事ですし、関係する家父長的で君主的な出来事にまで広がります(エリクソン、1981)。

 

 

 

 

 

 エリクソンの1981年の著作と言ったら、前にこのブログで翻訳した、『エール大学評論』4月号に掲載された「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」です。

 エリクソンは、神様の名前、「≪いまここ≫に生きている者」が非常に意義深いと言います。ギリシャ語では、この神様の名前は、現在進行形。ユダヤ・キリスト教文化では、「名は体を表す」とされますから、神様は現在進行形の存在ということは、≪いまここ≫を非常に尊ぶ存在であることが、ハッキリと分かります。

 「≪私≫という感じ」も≪いまここ≫を感じること。過去のトラウマに囚われたり、未来の不安に翻弄されてることと真逆です。

 

 

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胸が締め付けられるより、肩こりの方がマシだ

2015-11-03 06:49:56 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
特定の価値を選び、その価値のためには損も覚悟
  人間相手の仕事には、信頼がなくてはなりませんよね。 p116下から5行目から。    &nbs...
 

 

 自分の身体が感じることにとどまることそのものが、大きな知恵です。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.211の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 身体の動揺がチョクチョク変わるという事実を意識しさえすれば、私どもは不愉快なことも我慢できます。胸が締め付けられたって、息を深く吸ってから吐き出せば、気持ちが和らぎますし、何かが変わったこと、肩こりかもしれませんが、分かるかもしれませんよね。一回深呼吸すればどうなるかをよくよく見ることができれば、胸が広がること(楽になること)に気付きます。いったん、「確かに落ち着くなぁ」だとか、「これって面白いぃ」と感じたら、肩こりに戻ることができるようになりますよ。「どうも肩が張るなぁ」という記憶が自然によみがえったって、ビックリしちゃいけませんよ。

 

 

 

 

 

 肩こりって、厄介ですね。肩をマッサージしても、肩こりが止まないことがあるからです。「ためしてガッテン」を見てましたら、しかし、生理食塩水を肩の患部に打てば、あっと言う間に肩こり解消をするのに、ビックリしましたよね。

 胸が締め付けられる様な記憶って、もっと厄介でしようそんなことは思い出したくもありません。でも、深呼吸1つすれば、胸が締め付けられるようなことも、肩こりに変わることが分かれば、もう心配ご無用です。

 

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2人の子どもを大事にしましょ

2015-11-03 01:35:48 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
基礎と臨床、2つの視点
  宇沢弘文教授がなくなりました。86才。「行動する経済学者」と言われていたそうです。いくつかの番組で、その人と業績が紹介されました。その一つが先日の「クロースア...
 

 今晩は、2人の子どものお話。

 子どもと言ったら、大人になり切れないもの、一人前ではないもの、と見なされます。それが世間の常識です。「大人」はすぐに子どもにいろいろなことを教えようとします。日本の学校でやることのほとんどは、これです。しかも、教えようとしてることは、人格の発達とはほとんど関係のない話ばっかり…。

 しかし、新約聖書に出てくるイエスは、まるで逆です。

「14イエスはそれを見ていきどおっていわれた、「子どもらをよこしなさい。邪魔をしないで。神の国はこんな人たちのものである。15本当にいう、神の国を子どものように受け入れねば決してそこに入れまい」と。16そして子どもらを抱き、手を置いて祝福された。」(前田護郎訳「マルコによる福音書」第10章 14節~16節)

 イエスはなぜ子どもを大事にしたのでしょうか? それは本当のことは分かりません。しかし、イエスが「最も小さいものの一人にしたことは、すなわち、私にしたことだ」とおっしゃっているように、あるいは、「自分を大事にするように、すぐ近くにいる人を大事にしなさい(大事にすることになっていますよ)」とおっしゃっているように、子どもを大事にすることが、全ての倫理、人間らしい生き方の要であったことだけは、確かです。

 じゃぁ、どうすれば、子どもを大事にすることができるんでしょうかね? そもそも、子どもを大事にすることって、どういうこと?

 それは、2人の子どもを大事にすることです。眼の前にいる子どもと、心の中にいる子どもです。眼の前にいる子どもだけを大事にすること等、およそできない話しなのですから。心の中の子どもを大事にする分しか、眼の前にいる子どもは大事にできないんですね、不思議です。心の中の子ども、子どもですから、控えめで健気です。声高に「〇〇を取り戻す」などとは言いません。心の耳を澄ませないと、心の中にいる子どもの声が聴き取れません。マインドフルネス同様に、心をゆったりさせて、静かにすることを意識して、初めて聞き取れるくらいの小さな声です。子どもなんですからね。心の中の子どもの声に耳を澄ませて、対話を重ねると、眼の前にいる子どもともやり取りができます。イエスの言う「子どもを大事にする」というのは、心の中の子どもと対話しながら、眼の前にいる子どもとやり取りすることだ、と言って、間違いないと、私は確信してますよ。

 

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