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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悪用したのも、訳アリ。

2015-11-25 08:30:37 | アイデンティティの根源

 

 

 
本気と無理の間
  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母親と教員に会うことが多...
 

 

 誰かが、「正義」を独占すると、「悪い良心」が世間に広がります。

 アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが、自分のやってることだけが「正義」と大声でいうとき、「悪い良心」と暴力がいたるところで、蔓延ッテマスよね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.242の、第2パラグラフの、9行目途中から。

 

 

 

 

このように、悪い良心が発達してしまうことは、また、結論のところで論じますけれども、ルターの場合、自分を確かにさせる課題が、上手く出来なかったところがあり、バラバラになっていたことが、大人の危機をますます悪化させたと言う事実に反すると、私は思います。特定の価値を薦めるリーダーの危機が生じるのも当然なのは、自分が反抗していること(大なり小なり、秩序だった空想を、最も広い意味で政治の世界に当てはめ出すことです)が、現実に大衆の想像力や現実感覚や良心に対して何をなしたのかがハッキリと分からなくちゃならない時です。現実は、あらゆる社会階層の人たちが、革命的だけれども、烏合の衆だったので、あらゆる方面で、ルターの改革につけ込んでいたんですね。

 

 

 

 

 

 ルターが改革を起こしたこと自体は、良いことだったことでしょう。でもね、良いことさえ、悪用しようっていう人もいるんですね。ルターの改革も、付け込まれちゃったわけです。でもね、これ自体はそんなに悪いことではなかったのではないでしょうか? 暗黒の中世(ちょっと古い?)と言われるように、当時の人はアンシャンレジームに苦しんでいたんですから、そこからあらゆる手段を用いて逃げたしたかった、と思うのも、当然ですからね。

 

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倫理的に生きてる?

2015-11-25 07:34:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
グルメな世の中
 踊りと巻き上げに注意。 p80下から2行目から。      世の中は、バカデッカイ食べ物になっち...
 

 礼拝って、特別なことではないんですね。それは、実は、自分以上を認めながら、やり取りすることなんですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p94の、3行目から。

 

 

 

 

もう一回、思い出してもらいたいのは、発達の要素と、世代を育む要素を、漸成説に従って眼に見える形にしてね、ということかもしれませんよね。すなわち、

Ⅲ  

 

 

 倫理的

Ⅱ  

 

価値的

 

道徳的

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 簡単に見えますが、これを日常生活でやってみたら?と考えてみてください。道徳的に生きる、何かの価値に献身して生きる、倫理的に生きる。どの一つを取ってみても、ずくに様々な困ったことに出くわしますでしょ? それにもかかわらず、それを日常生活の中で実践しようとする時に、私どもはどうすりゃぁ良いのかしらね?

 


 

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真理に対する畏敬

2015-11-25 06:35:22 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
本気と無理の間
  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母親と教員に会うことが多...
 

 

 音楽やリズムには、人を癒す力があるらしい。 

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.216の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 しかし、周りは異質で怖いけれども、この集団のことはよく承知していました。その女性は倒れこむように座って、悲しくて、凍り付いていたのですが、ボストンにある、レイプをされた人たちの多くのグルーブと同様に、私が感じたのは、無力感でしたし、倒れている人に囲まれて感じたのは、私も気持ちの上では倒れこんだ感じでになる、ということでした。その時1人の女性が鼻歌を始めますと、静かに身体を前後に揺らし始めました。リズムが1つ始まりますと、少しずつ他の女性たちもそのリズムに加わりました。まもなく、グループ全体が歌い、身体を揺らし、ダンスを始めました。それは驚くべき変化でした。すなわち、人々は生気を取り戻して、皆の表情があってきて、生気が身体に漲りました。私はそこで私が目の当たりにしたことに心傾けることを誓うと同時に、リズムや讃美歌を繰り返し歌うことや身体を揺らすことが、トラウマ治療にいかに役立つのか研究しようと心に誓った次第です。

 

 

 

 

 

 音楽やリズムや繰り返しのある動き、恐るべし。一見ばかばかしい、あるいは、何気ないことに、深い意味がある、ということは、臨床ではよくあることなんですね。ヴァン・デ・コーク教授も、何気ないリズムが示した現実に素直に心傾けて、常識や自分の研究の枠組みを捨てたことは、皆さんが思うほど簡単なことではありません。そのためには、かなりの訓練が必要だからです。常識や自分の研究の枠組みにとらわれてしまう人、常識や自分の研究の枠組みにとらわれてしまうケースの方が、囚われない人やケースよりも、はるかに多いんです。

 必要なのは、真理に対する畏敬です。

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利根川の冷たい水に入る老夫婦・娘と「女性が輝く社会」

2015-11-25 02:31:55 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
本気と無理の間
  今日のタイトル、どういう意味かって? それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。 私は小学生の母親と教員に会うことが多...
 

 埼玉県の深谷市で、老夫婦とその娘が、利根川の水に入ったといいます。心中だと言われます。高齢の夫婦はなくなり、50歳近い娘さんは、低体温症で見つかったらしい。娘は、殺人と自殺ほう助で逮捕だとか。今朝の朝日新聞(11.24, 2015, 12版▲p.28)にも載っています。他紙にもあります(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG23H5I_T21C15A1CC1000/)。

 ここ数日、急に冷え込んできましたよね。利根川の水もどれほど冷たかっただろうか、と想像します。痛かっただろう、しびれただろうと思います。毎日1,000人くらいの人が自殺するニッポン(その内、死ぬ成功率[あるいは、死ぬ失敗率]は1割くらい)ですから、その内の1ケースだ、という見方もできるでしょう。

 しかし、私は別の見方をしたい感じでいっぱいです。ここには、幾重にも「平和な」ニッポンと言われるけれども、「戦争状態」である、ニッポンの真実の姿が現われていると感じるからです。

 亡くなったおじいちゃん、74才だったそうですね。でも、つい先日まで、新聞配達のバイトをしていたらしい。年金だけでは生活が出来なかったからに違いありません。なぜ、私どもは、掛け金を1円も払わずとも、年金がもらえるデンマークのような年金制度を作らないのでしょうか? 年金を貰っても、生活できない程度のお金しかもらえない制度設計をそのままにしていること自体、日本に暮らす市民の「人間として正しいこと(基本的人権)」が蔑ろにされている、と言えませんか?

 また、亡くなったお婆ちゃんは、介護が必要な状態だったといいます。「平和」と言われるニッポンですが、介護が必要になっても、居住タイプの介護施設は、申し込んでも何年間も待たないと入れないし、利用料も取られます。なぜ、デンマークのように、施設にすぐに入れて、しかも、無料な高齢者福祉制度を作らないのでしょうか? 「介護が必要になったら、家族が仕事を辞めてでも介護をしてねっ、それでもだめなら、死んでも構いません、サッサと自殺してねっ」と言わんばかりの介護制度を、しかも、お金を利用者が払って使っているような、貧しい制度は、果たして、「人間として正しい生活(基本的人権を守った生活)」と言えるでしょうか?

 また、50才位の娘さんが、仕事を見つけることも困難だったでしょう。たとえ見つけられたとしても、その仕事は、果たして、家族5人が、贅沢はできなくても「人間として正しい」暮らしが、できたでしょうか? ここには、女性の雇用が厳しく、たとえ働けても、「ワーキング・プア」と言われる程度の賃金しか得られない労働政策があります。正規雇用と非正規雇用の分断政策、女性の蔑視、低賃金・長時間労働、働くものの意見表明権の蔑視、職場での話し合いの蔑視、働くものの心と身体の健康を守る労働衛生の軽視など、労働政策の悪質な劣悪化があります。

 「女性が輝く社会」の看板を掲げる、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たち。この心中に2人の女性が含まれていたことを考える時、この「女性が輝く社会」とは、どんな意味があるのでしょうか? もちろん、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは、詐欺師集団、ウソつき集団ですから、この「女性が輝く社会」の看板もウソであることは間違いありません。でも、それだけじゃぁないでしょう。むいろ、ウソ以上に悪質です。つまり、ニッポンの現実は、そりゃぁもう、非人間的な社会にすでになって久しい。改善・改革が必要です。そこでこの「女性が輝く社会」の看板が威力を発揮します。現実には、女性が生きやすくなるような政治は皆無と言っても、間違いないのですが、この「女性が輝く社会」の看板があれば、たとえなにも役立つことはしてなくても、「やる気はある」と言い張ることはできるでしょ。つまりこの「女性が輝く社会」の看板は、真面なことをやらない「口実」「言い訳」にはなるんですね。

 私どもは、看板に騙されないで、市民の「人間として正しいこと」を頼りに、その実現を政治日程に乗せる政治を選択していかなくてはならないでしょう。

 

 

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与える悦びと貧しさ

2015-11-25 01:19:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
子どもに必要なのは、大人の「真実な態度」 「真実な」=信頼豊か
  早熟の道徳性、早熟の良心は、禁物です。「正しい」ことよりも、「ホッとできる温もり」が何よりも大事だからですね。 p224第3パラグラフ。 ...
 

 

 今晩は、マザーテレサの言葉を皆さんと一緒に味わってみたいと考えました。

 母親が語る、子どもの言葉を思い出しますね。ディズニーランドから帰ってきて,自宅の前の道でバトミントンをして…。その子にその日一番楽しかったことを尋ねたところ、「バトミントンをやったこと」と答えたというお話。以前にブログで取り上げました(子どもの日に 子どもにとって「楽しい」時間を是非)。そのお母さんは、お腹立ちでしたね。でもね、お金と時間を掛けてディズニーランドに出かけたのですから、ある意味当然のお腹立ち。だけど、肝心なことが抜けてたみたい。

 マザーテレサの言葉。

 

 

 

 

 

 

 

「私たちの贈り物に

 どれだけ愛を注いでいるでしょうか?

 たとえ、どんなにお金持ちであっても、

 愛を与え、

 そして愛を受け入れることの出来ない人は、

 貧しい人の中でも最も貧しい人です。」

 

 

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