エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターの大きな落とし穴

2015-11-16 23:49:17 | アイデンティティの根源

 ルターは、自己正当化のために、聖書ををアビューズ、虐待、悪用するとき、堕落が始まりました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.240の、第2パラグラフのから。

 

 

 

 

 

「ルターは神の人で、プチブル的な安逸を貪っていましたし、太鼓持ちたちに囲まれていました。この太鼓持ち達は、ルターがオナラをしても、そのオナラが神の啓示か、聖霊の働きに違いないと思い込んでいました。…ルターは、改革者の質を下げてしまいましたし、後の時代にあって、改革者ごっこをしたい、忌まわしい御人好したちを作り出すことになったのです。ルターの晩年は、平々凡々としていたと見なされました。」

 

 

 

 

 

 こんな太鼓持ち達に囲われたら、人は間違いを起こしやすいですね。自分は「偉大」かもしれない。そういう大間違いをしでかしやすい。まるでオウム真理教の麻原のオシッコや汗や血をありがたがるように者ですね。これはもう、偶像崇拝、といっていいでしょう。信頼を回復したはずのルターでさえ、その真逆の偶像崇拝に陥るのですから、偶像崇拝に陥ることがいかに容易く、深い淵であるかが分かるだろうと思います。

 

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社会の仕組みからふるい落とされ続ける ニッポン

2015-11-16 08:21:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
人を大事にすることに社会的な可能性を信頼することこそ、合理的信頼です!!
  人とのやり取りや、人を大事にすることを、社会システムに組み込んでいきたいものですね。 とうとう第4章も、今日が最終回。 p1231行目途中から。&...
 

 

 忙しい毎日を送って、内省を怠っていたら、自分が何色の世界に暮らしているのか? 知らないままに生きることになります。そういう人って、たいてい「灰色の世界」に生きていたりして…。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p91の、下から9行目途中から。

 

 

 

 

 

生まれながら心抱く、いろんな葛藤や、破壊的ないろんな二律背反のなかで、身体、対人関係、自我、それぞれの仕組みが潜在的に補い合っていることを研究することができますからね。このような研究は、様々な歴史的状況の中で、精神分析が、それ自身の歴史と、その価値と倫理に対する衝撃について、より自覚的であればあるほど、実り多いものになることでしょう。新たな文化史を見て初めてできることがあります。それは、ひとりびとりの発達の細々したことすべてが、大きな仕組みとぴったり一致するのか、それとも、それとは異なるのかを明らかにできるでしょう。この大きな仕組みは、様々な信念体験がどのように受け継がれていくのかということの中に、あるいは、政治経済の価値という歴史的な前提の中に、または、いろんな科学理論を経験に当てはめることの中に、それぞれ示されるものです。

 

 

 

 

 

 ひとりびとりの育ちが、大きな社会の仕組みに適応するのか、それとも、どんどんそれから逸れて違ったものになるのか、見ていくことが大事です。今の日本のように、人間が人間として育っていけない社会では、特にそうですね。

 私どもは、ビックリするくらいの子どもたちが、社会の仕組みからこぼれる、いや、振るい落とされる現実を直視するためにも、こういった文化史の視点から見ることが必要でしょう。子どもの貧困、虐待は、遊びや食文化の貧困と直結しているのですから。

 

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神意と人意

2015-11-16 02:58:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
最深欲求 > 黄金律
  黄金律には不思議な力があることがハッキリ分かりますね。 p221第3パラグラフ。    &nb...
 

 

 今晩も、私事から始めますことをお許しくださいね。

 1985年の8月に、初めて狛江は喜多見の西村秀夫先生のお宅を訪ねて、予め、門扉が開かれていたことを思い出します。私が伺った晩、西村先生のお宅に、大塚久雄先生からの電話がかかってきたのも、よく覚えています。大塚先生の本はマックス・ウェーバー関係の本を何冊か読んでいましたから、印象深く残ったのかもしれません。その晩で、私は集会に参加が許されました。初めて「聖書を学ぶ会」に参加したのが、翌9月からでした。世田谷の日大商学部近くの、小さな集会場だったと思います。成城学園からバスで20分くらいだったでしょうか。初めての場所ですから、「遅刻厳禁」と聴いていた無教会の集会なのに、私ははじめから遅刻で参加することになりました。

 初めての9月の集会の便りが西村先生から送られてきた時だと思うのですが、矢内原忠雄全集などから、「参考資料に」ということで、何枚かのコピーもいただきました。その中の一つ「子供について」は以前、このブログで取り上げました(矢内原忠雄の「子供について」)。

 今日は、その中から、「神意と人意」を取り上げたいと思います。大学3年の当時は、この文書は、文字は読めても、その中身は何のことを言っているのか、正直言って、チンプンカンプン。私にとっては、禅問答のようなものでしたね。いまでも、そのすべてを実感を以て分かったとは言えません。A4で1枚の短い文章です。その一部は、http://blogs.yahoo.co.jp/jintoku510/44256830.htmlで読めます。矢内原忠雄先生は、神意の特色を4点挙げておられます。矢内原忠雄先生のご経験の中から導き出したものだと思われます。極めて厳格な矢内原忠雄先生のこと、そこに一点の曇りもないはずです。

 この中で私が実感を持つのは、1点目の、「神意である場合には、何よりも先ず圧倒的な畏怖(いふ)、厳粛(げんしゅく)感が私の心を支配」すると言う点と、4点目の、「つつしみを以て日を過ごす中、それの成就されて行く道が客観的に開か」れる、と言う点ですね。波瀾万丈を文字通り生きてきまして、ここでは具体的には記せませんが、「奇跡」のような体験を何度かしたことがあります。その時には、何の(客観的史実と言う名の)根拠もなく、1点目の感じ、すなわち、厳粛な強い予感がまずありましたね。そして、しばらくすると(あるいは、かなり待ってから)、不思議なことに、その予感が実現する、ということが起きりましたよ。

 占いが当たる話ではありませんよ。神意というものがあるとすれば、厳粛な強い予感がして、しばらくすると、当方が特別に何かした、という訳ではないのに、それが出来事になる、実現する、ということくらい、「神意」の名にふさわしいことはないと思います。

 信頼が豊かだから、神意が実現するのか? 神意が実現するから、信頼が豊かになるのか? 私には分かりません。

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自分の使えるセラピーの方法をハッキリ示すこと

2015-11-16 00:19:37 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
小出裕章さんのメッセージ 東北~関東 ホントは人が住めない⁉
  昨日早稲田のクラスメートの楠さんがfacebookで、小出裕章さんのメッセージに「イイね」をしていて、拝見すると、とても大事なメッセージでした。皆さんご覧にな...
 

 

 「怒らない」「良い良心」のセラピストは、やり取り上手でもなくてはなりませんね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.214の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 セラピスト自身が自分の私的な葛藤を事細かに話すのは、不適切ですし、倫理違反ですけれども、自分がどんな流派のセラピーをするのか、それはどこで訓練したのか、そのセラピーをするとどんな効き目があるのかを尋ねることは、極めて理に適ったことです。

 

 

 

 

 

 セラピストは、自分がよって立つ立場や、活用できるセラピーの方法、たとえば、箱庭療法であったり、認知行動療法であったり、マインドフルネスであったり、です。それは、クライアントにセラピーの見通しを持ってもらい、安心してもらいたいいし、出来れば、セラピストを信頼してもらいたいからです。

 

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