ヨーヨー・マと大竹しのぶ昨日の「プレミアム・トーク」(10.31/2014, 8:15~9:40)は、実に見応えがありましたよ。私は録画したものを見て、とても愉快な気持ちになりました...
人間にとって、一番大事なことは何かしら?
経済学者、宇沢弘文教授によれば、「人間にとって、一番大事なことは、心です」と言います。経済学と言えば、経済成長だとか、損得勘定だとかを考えてしまう私の浅ましさを覚えます。
ヨーヨー・マと大竹しのぶ昨日の「プレミアム・トーク」(10.31/2014, 8:15~9:40)は、実に見応えがありましたよ。私は録画したものを見て、とても愉快な気持ちになりました...
人間にとって、一番大事なことは何かしら?
経済学者、宇沢弘文教授によれば、「人間にとって、一番大事なことは、心です」と言います。経済学と言えば、経済成長だとか、損得勘定だとかを考えてしまう私の浅ましさを覚えます。
ルターは、そのお堅いイメージとは裏腹に、結構ユーモアセンスがありました。
Young Man Luther 『青年ルター』p.237の、ブランクの後から。
嵐の後の静かさの中で、ルターはまた、強い不安が募りました。今度ばかりは、うつが長引き、重たいうつになりつつありました。「これはどうしたことか?」と精神科医は問いますよね。「ルターは、自分の影響力が最高潮に達しましたし、幸せな結婚もしましたし、危機を脱したのではなかったのか? ルターが再び、悲しむはずがありませんし、以前にもまして、悲しくなるなんて理由などあろうはずがありません。ルターの「心のビョーキ」は、内因性のもののはずでしたし、ルターの中での生物学的な変化で決まったはずでした。意味ある理由を見つけ出すなど、馬鹿げた話です」。私どもの社会学者は、精神科医とは逆に、ルターは以前にもまして、トラブルに巻き込まれる理由があると感じます。「ルターは、良心に痛みを感じることなく、180度の方向転換を果たすことができたのは、根源的だと感じてた原則を裏切らずに済んだと感じてたからです」と。その事実が示すことは、ルターが自分の説教が満たされたことを感じて、新しい危機の前に立ち竦んでしまった、ということです。その危機とは、ルターの気質からルターの症状は説明がつくとはいえ、新しい似つかわしくない文脈では、ルターを再び悲しみに連れ戻すものでした。
ルターは、根源的には変わってなかったのでした。確かに信頼は回復したんですけれども、何かが違ってたみたい。エリクソンは、それを何とするのか? 愉しみにいたしましょう。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p87の、下から3行目途中から。
もちろん、≪私≫から≪私たち≫や≪彼(女)ら≫へと至る、代名詞が、十分な意味を帯びることになる、その発達の文脈を素描することは、とっても大事なことです。それは、この代名詞が十分な意味を帯びるのであれば、いろんな感覚器官との関係であろうが、いろんな体位やいろんな感覚との関係であろうと、世の中に対するいろんな見方にある、時空の性質との関係であろうと、構いません。
エリクソンは、加藤周一さんみたいに、難しいことを実に分かりやすく、言ってくれますね。私の価値を実感することを、≪私≫という人称代名詞を、いろんな場面で使うという、至極日常的な生活の中に位置付けてくれんですからね。「私は…と思います(考えます)」と言うことは、とっても大事ですね。
もちろん、そのためには、日ごろから自分の頭で考えて、自分の考えに従って生きている、ということが前提です。そうでなれりゃぁ、「私は…」ということが、単なる思い付きになっちゃうでしょ。
それとは対照的に、≪私≫という人称代名詞をあまり使いたがらない(日本)人は、それだけ、自分の価値を実感しにくい日常を生きざるを得ませんね。そういう人は、日常生活の中に埋没して、自分の頭で考えないのが習慣でしょう。考えることと言ったら、「何が自分に得か」の損得勘定位でしょうね。
発達トラウマのある愛着障害は、感情や感覚を感じる時に良い思い(たとえば、温もり)をすることが極端に少ないので、怖いものになっちゃいます。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.210の 2節の第4パラグラフから。
(感じることができない状態を)変えていくためには、あなた自身が自分を心の経験に開いていかなくっちゃね。最初の一歩は、自分の感覚に意識を集中させることです。いつものこととは反対に、いつまでも今ここで経験するトラウマや、身体が感じることは、束の間のことであって、身体の位置をちょっと変えたり、呼吸の仕方を変えたり、考え方を変えたりするだけで、すぐに変わるものだということに気付くことです。身体が感じていることに注意を払えるようになったら、次は、「不安を感じたら、胸がはちきれそうになります」などと、その感じに名前を付けてあげればいいんですね。
自分を取り戻す最初の一歩は、身体が感じていることを注意を払うこと、その感じに向き合うことです。第2ステップは、その感じたことに対して名付けることです。すなわち、感じること≪感じ≫+名づけ≪話し言葉≫の一致ですね。
操縦=力頼み=モノ扱い子どもを操縦するのは、子どもをまるでリモコンのテレビかラジコンのように、モノ扱いしているからなんですね。「そんなひどいことしてません」と、ただをこねても、子ど...
日本の政治の現在を考える一夜。
私は今でこそ、臨床心理学徒ですが、もともとは、政治学、特に、政治思想史が専門です。早稲田大学政治経済学部の、藤原保信先生のゼミで学びました。卒論は、ボンヘッファー神学と解放の神学について、まとめました。懐かしいですね。姜尚中さん、千葉眞さん、川出良枝さんは、ゼミの先輩にあたります。私自身、今も政治に対する関心は変わりません。
アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが政権を取ってからの政治について、様々な人が様々な立場から、様々なことを言われます。いつくか例示したいと思います。そのあまりのおバカぶり、狂気ぶりは「反知性主義」と呼ばれる場合があります。また至極当然に、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちのやる狂気を「狂気」という山口二郎教授のような人もいます。
私自身は、臨床心理学徒であり、かつて政治学徒であったものとして、別の見立てをしたいと考えました。
戦争法案、最初はホルムズ海峡の機雷除去を「口実」にしてましたけれども、尖閣諸島や南シナ海での中国の膨張政策に伴う「中国の脅威」と、それに対するアメリカの警戒感が背景にあることが分かりましたね。それに対して、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちの番頭格、菅義偉さんが、南沙諸島を中国が埋め立てて、軍事基地を作っていることに対して、「各国が緊張を高めるような一方的な行為は慎み、法の支配の原則に基づいて行動してほしい」と言ってましたね(繰り返し言ってますが、その一つがhttp://www.nikkei.com/article/DGXLASFS17H5O_X10C15A4PP8000/)。当然の発言と思った人もいたかもしれません。
他方、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは、夏休みの間は、翁長知事と話し合うフリをしてましたが、夏休みが過ぎたら、そのフリは止めて、露骨に権力丸出しの対応の本性が出てきましたね。辺野古の海の埋め立て工事の認可取り消しを沖縄県がした後に、行政不服審査請求を国がするということが出てきました。これは、行政不服審査制度が、「国などから受けた不当な取扱いから市民を救済する」という立法趣旨、法の精神に基づいていることから考えると、国が市民のフリをするナリスマシ詐欺であることは明らかですね。また、ローマ法以来の原則、「何人も、自分の訴訟の裁判官になることは許されない」No one should be a judge of his own cause.」に反することは、子どもに運転させちゃダメでしょ!で、記したところです。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは、沖縄県民のみならず、日本の市民の「緊張を高めるように一方的な行為を」、県の承認取り消しを無視し、行政不服審査制度の「法の支配」(国が市民のフリはできないのに、市民のナリスマシ詐欺をして)も無視して、強行している訳ですね。沖縄の人たちや、私ども市民の立場に立てば、「主権者である日本の市民が緊張を高めるような一方的な行為は慎み、法の支配の原則に基づいて行動してほしい」ということに、当然なりますもんね。
つまり、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちが「中国に言ってること」と、「辺野古でやってること」が真逆ということです。これは、一般的に「投影」と呼ばれることで、それだけ、その人が ”無意識の暴力的支配” に陥っていることを意味します。この ”無意識の暴力的支配” が強い人ほど、魂は、それだけ、子ども、赤ちゃんだ、ということです。あるいは、もっとはっきり、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちは、心のビョーキだ、ということです。これだけ投影が強い、魂が子どもの人、心がビョーキの人たちが、政治をやってる訳ですから、危険極まりない、という訳ですね。