エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「祈りの中」の革命

2015-11-07 10:31:51 | アイデンティティの根源

 

 

 
人類の危機に立ち向かう勇気
  エリクソンの愛敵の教えは非常にクリアです。 p363の10行目途中から。     ...
 

 ルターは、初めは非難していた存在そのものに、いつの間にか、自分がなっちゃいました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.239の12行目から。

 

 

 

 

ルターは、免罪符や高利貸に誰よりも乱暴に反対してきたのに、私利私欲と、どの宗教・教派を選択するかということとの間にある、魂にとって不幸な縁組を、西洋世界で目立ったものにしてしまったんです。マルティンは、父親の階級を弁護する、魂のレベルでの法律家になっちゃったのでした。

 

 

 

 

 ルターが祈りの人として「祈りの中」で気付いたことは、世界を、ひとりびとりの人を根源的に変えてしまうものでした。その意味では、いまでもルターから学べることはたくさんあります。しかし、それを実現するためには、それだけ膨大なエネルギーのいることでしたが、ルターの手近にはそれだけのエネルギーはありませんでした。ルターの中にそれだけのエネルギーがあったのか、なかったのかはわかりません。

 ルターが「祈りの中」で気付いた革命は、したがって、現在進行形なんです。神様は、いつでも、現在進行形だからです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「本当だなぁ」という感じの分かち合い

2015-11-07 08:17:58 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
公平さだけじゃぁ、不十分
  信頼と勇気の練習は、それを意識して毎日やれば、叶うもの。 p119第2パラグラフ。    &n...
 

 

 私どもは、世界の中心にいたい私たちなのです。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p89の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 これまではこれでいいでしょ。しかし、お気づきのように、人間の発達を人生のいろんな舞台を通して辿る時に、人間の課題となるのは、自分が中心でいるという、非常に根源的な感じが、相手の数が舞台ごとに次第に増えていく中で、新たにされるかどうかにかかっている、ということでしょ。その相手の中には、人生の大事な局面で、1人の「相手」と個人的に認めるほど近しい人もいれば、しかし、ほとんどの人は、分かち合うことによって、「本当だなぁ」という感じを確かにしたいと願っている、少数のやり取りのある人たちです。この少数のやり取りのある人たちは、「本当だなぁ」という感じを私たちに押し付けたりはしないけれども、「本当だなぁ」という感じを、私たちとは違ってしまうこともありますね。

 

 

 

 

 

 「≪私≫という感じ」は世界の中心でありたいと願います。しかし、それと同時に、「本当だなぁ」という感じを分かち合うことも同時に必要です。「本当だなぁ」という感じを分かち合えば、私どもは「≪私たち≫という感じ」をも共有することができるんですね。

 ですから、「≪私≫という感じ」は世界の中心でありたいと願うと同時に、相手の「≪私≫という感じ」を認め合う「≪私たち≫という感じ」も必要です。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道徳教育と倫理の伝承

2015-11-07 03:19:35 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
よろしくね。
  毎日、お忙しい生活をしておられるお母さん。ご苦労様です。 一生懸命に生きておられることでしょうね。 今日はどんな一日だったでしょうか? そんなことも、...
 

 

 私は、道徳教育には否定的です。「やんない方が良い」と考えてます。私自身は、小学校でも中学校でも「道徳」の授業を受けた記憶がありません。しかし、高校の頃と、大学のリベラルアーツで、「倫理」の授業がありました。「倫理」の授業は、哲学の授業みたいで、私は好きでしたね。もともとの専門が、政治思想史だったからかもしれません。

 なぜ、道徳教育に私は懐疑的なのか? それは「偽善の臭い」がするからですね。教員もできないことを、一方的に子ども等に押し付けようとしているだけ、という感じがしますから。以前にも、このブログで、道徳教育を記した時にも、書きました。学校が上意下達の、権威主義的集団である時(実際にそういう組織であるケースが、残念ながら、少なくありません)、日本軍と同じで、イジメの連鎖が生まれます。教育委員会から校長に、校長から教員に、教員から子ども等に、イジメの連鎖が生まれます。その、成れの果てが、大川小学校ですね。70人以上の子どもが殺されているのに、誰一人責任を取ろうとする者がいないし、未だその責任の所在を明らかにしようとさえ、していませんでしょ。とうとう、子どもが殺された教員の佐藤さんは、教員を辞めてしまったようですね。「事なかれ主義」以上の、軍国主義日本の軍隊並みの、いじめと無責任体制があったことが、強く推定されますね。一方でイジメをしていて、子どもの意見表明権という、人間として正しいことを封殺していて(「決まりなんだから(問答無用に)、守りなさい」)、道徳を語れると思う方がどうかしてますね。

 子どもが倫理を学ぶのは、倫理的態度を学ぶのは、倫理的態度で繰り返し関わってもらった時だけです。つまり、大人の≪話し言葉≫と≪出来事≫が、繰り返し一致する時だけ、≪言ってること≫と≪遣ってること≫が、繰り返し一致している場合だけです。アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちや、東芝や東電や、フォルクスワーゲンや、秋田の肥料会社や西武学園や、三井不動産レジデンシャルや旭化成建材、スタップ細胞の理化学研究所や御用学者や…、もうきりがないほどの、個人や組織の「ウソとゴマカシだらけニッポン」の空気に染まらずに、いることが大事ですね。

 ≪言ってること≫と≪やってること≫を一致させるためには、個人も組織も超える価値を、少なくとも一つ、心に深く刻み込んで、しかも、「腑に落ちない」ことをゴマカサナイで、明確にする態度を取りつつげていなくてはなりませんね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安全と安心のはじめ

2015-11-07 01:29:48 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
ガリラヤの言い伝えと「≪私≫という感じ」 最終回
  とうとう、この論文の最終回。ここまでお付き合いいただきました皆様、ありがとうございます。 p362の第2パラグラフ。  &...
 

 

 

 マインドフルネスの効果は絶大らしい。 過剰なストレスを解消して、イキイキ・ピチピチ生きて行けそうですね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.212の第3節から。

 

 

 

 

 

3 いろんな関係

 

研究に継ぐ研究をしましたら、いろんな人から支援してもらえるネットワークがあることが、トラウマを負わされることに対して、たった一つの、一番強力な守りであり続けていることが分かりました。安全と恐怖は両立できません。怖い時には、信頼している人から励ましてもらったり、シッカリとハグしてもらったりすることほど、落ち着きを取り戻せるものはありません。怯えている大人だって、慰められたら、怖がる子どもと同じです。優しく包んでもらったり、身体を揺らしてもらったり、自分よりも強くて大きな人から世話を焼いてもらえると思ったら、安心してグッスリ眠れますでしょ。回復するためには、心も身体も脳も、自由にできると確信しなくちゃいけません。そういうふうになるのは、腹の底から安心できる時だけですし、その昔、どうすることもできなかった記憶を思い出しても、その安心感を抱きつづけられる場合だけです。

 

 

 

 

 トラウマを抱えた人にとっても、一番大事なのは、安心と安全です。でも、それは建物や部屋や備品や設備ではありません。人です。関係です。発達トラウマを抱えた人は、たとえ短い人生の間でも、繰り返し、「怒られ」てきました。ですからね、「怒られ」るようなことをします。その子は、無意識に、相手が「怒るか?」を試してんですね。「怒らないでね」と祈りながら。その祈りに応えることが、安心と安全をその子が感じる初めになります。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする