エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターも、仕返ししたい底意地の悪い気持ちを、克服できませんでした

2015-11-20 07:13:35 | アイデンティティの根源

 

 

 
消耗品となっちゃった個人
  個人はほとんど0になってる。でもね、完全に0になってる訳じゃぁない。 p79第2パラグラフ。    ...
 

 

 ルターは、毒素を、仕返しをすることで、振りまいてました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.241の第1パラグラフ、下から5行目途中から。

 

 

 

 

 

ついでながら、ルターは、仕返しをしたい底意地の悪い気持ちを持ちすぎなこともハッキリ、気付ていたはずなのに、ルターの言い分は、「私は少なくとも、悪意のあるやり方で、いびったりなど、してません。私は、相手が傷つかない程度に、豚の鼻でつついただけだ」ということでした。「とにかく、私は、イギリス王(ヘンリー8世)程悪くはありません」。

 

 

 

 

 

 仕返しをしたい底意地の悪い気持ち、中学生の悪口の言い争いが、なかなか終わらないようなものでしょうね。最後に言い返すのは、相手ではなく、自分でありたい、という風に、両者が思っていますから、悪口の応酬がなかなか終わらない…。

 信頼を回復したはずのルターが、なぜ、仕返しをしたい底意地の悪い気持ちを克服できなかったのか? エリクソンの分析を期待いたしましましょう。

 

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愛着障害のカウンセリングはこれだぁ! その7 生き延びた記憶が一粒の種になる

2015-11-20 05:58:23 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 良いセラピストは、クライアントと一緒に≪本当の自分≫を探してくれる人です。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.215の始めから。

 

 

 

 

 

 クライアントで、子どもの頃に親たちから打たれたりして来た人は、誰に対しても、安心・安全を感じることが出来ない場合が多いです。私は自分のクライアントによく尋ねるんですけれども、それは、「子どもの頃に、安心・安全を感じた人のことを心に浮かべて」ということです。多くの人は、1人の教師、1人の近所の人、1人の店のご主人、1人のコーチ、1人の牧師さんで、自分のことを世話してくれた記憶を胸にシッカリとしまっていますし、その記憶は、新たな人間関係を結び直すときの、一粒の種になりうる場合が多いです。私どもは、1人熱き希望を抱く人種なんですね。トラウマに働きかけることは、ぶち壊されていることを思い出すのと同じくらい、自分がいかに生き延びてきたのかを思い出すことなんですね。

 

 

 

 

 

 私も、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもたちに毎日会っていますと、ここでヴァン・デ・コーク教授が指摘している、一粒の種になろうと思います。聖書的に申し上げれば、「一粒の麦」になろうという訳ですね。同じことです。

 その種が、発達トラウマを抱えた愛着障害の子どもの心に根差して、綺麗な花を咲かせてほしい、見事な実りを迎えてほしい、と願わざるを得ませんね。

 

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「ダメよダメダメ」の「正しいことを押し付ける」ことが、一番の「ダメよダメダメ」なのよ

2015-11-20 03:01:29 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「いいね」と「ダメね」の線引き
  道徳は、脅しに基づき、倫理は理想に基づくといいますね。 「いいね」と言っても、facebookの話ではありません。 p222第3パラグラフ。&nb...
 

 「悪い良心」が溢れたニッポン。

 ウソとゴマカシが溢れたニッポン。

 支配と服従が溢れたニッポン。

 「悪い良心」は、「ウソとゴマカシ」で、「支配と服従」の関係を弱い立場に強いるもの。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p92の、下から2行目から。

 

 

 

 

 

 このフロイトの言葉は、革命的な影響力と方法を精神分析的に研究することに対して、計り知れない、いろんな意味があります。しかし、最も驚きなことですが、このフロイトの言葉が示していることは、心の動きを作り直すときには、精神分析は、超自我(訳注:良心)を伝統の受け皿としても記しておくことが出来ますし、またそうすべきだ、ということです。特に、超自我(訳注:良心)が伝統の受け皿となるのは、変化や解放に反対する場合です。つまりそれは、主要な歴史的な傾向が、精神分析研究を方向づけるような心の葛藤を反映していることを示しているのです。しかし、私は、発達の視点から、ぜひ強調しておきたいことは、超自我(訳注:良心)にある、子どもの頃の残りカスは、フロイトが示しているように、実際に力のある「正しいこと」を反映するだけではなくて、「正しいことを押し付ける」道徳主義になっちゃう、古くからある「正しいこと」も反映している、ということです。というのも、超自我(訳注:良心)は、想像上のエディプス期と、幼児期の危機、「自分の感じに従って、行動をやっても良い感じ」であるイニシアティブと、「自分の感じに従って行動をしちゃ、ダメな感じ」であるギルトとに、バランスを取るものですが、この超自我(訳注:良心)が特に強調しがちなのは、一連の禁止「ダメよダメダメ」であることなんですね。この一連の禁止「ダメよダメダメ」は、陽気で楽しく「自分の感じに従って行動をしても良い感じ」を壁の中に閉じ込めなくてはならないものだからですし、根源的な道徳を、すなわち、「正しいことを押し付ける」道徳主義的な方向づけさえも、でっちあげてしまうことになるからです。

 

 

 

 

 

 子どもにとって、最も根源的な大事なことは、≪陽気で楽しいこと≫です。「正しいことを押し付ける」道徳主義は、この≪陽気で楽しいこと≫を窒息されてしまいますから、「ダメよダメダメ」の「正しいことを押し付ける」道徳主義こそが、子どもにとって、一番の「ダメよダメダメ」なんですね。

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顔色を窺ってたのでは、≪本当の自分≫が死んじゃう、的外れな人生

2015-11-20 00:12:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
現代資本主義の特色 個人がなくなっちゃう
  道徳と、倫理は、似て非なるものらしい。向きが違うらしい。それってどういう意味? p78の第2パラグラフ。   ...
 

 

 ジョン・カボット・ジンさん。『大きな不幸を生き切ること』から。信頼のさらに続き。

 

 

 

 

 

 瞑想をするようになった人の中にも、自分のいろんな気持ちや直感を大事にしない教員の評判や力に巻き込まれちゃう人もいますよね。そういう人って、その教員が、自分よりもずっと頭がいいし、ずっと先を行っている人だって思い込んじゃってますでしょ、その教員のことを、完璧な知恵のモデルだと尊敬しなくっちゃ、と思っちゃうし、この教員が言った通りにしなくっちゃ、とも思っちゃう。こういった態度でいたら、瞑想のスピリットとは、正反対ですからね。だって、瞑想のスピリットって、あなたが自分自身になることですし、自分自身になる、って、どういうことか理解することが大事だからです。誰か他の人の人マネをしてたら、その相手が誰であっても、的外れをしてる、ってことですからね。

 

 

 

 

 

 

 従属するモデルのなるのは教員だけではなくて、親の場合もあります。でも、日本人の多くは、上司の顔色、校長や部長の顔色を気にして、その指示待ちで仕事をする場合が、いちばんよくあるパターンです。でも、これだと、瞑想のスピリットとは、真逆です。≪偽りの自分≫を演じることになりますからね。大体、瞑想、あるいは、内省がないと、≪本当の自分≫がどういうことかが、もう、分からなくなっちゃってる場合が、大人も子どもも、非常に多いんですよ。

 

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