エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

森田三郎さんの祈り、山本太郎さんの祈り

2016-01-01 20:07:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

  森田三郎さん

 

 
宇沢弘文先生に耳を澄ませば
  宇沢弘文さん、雑誌『世界』に載る論文を時々読むくらいでした。しかし、この秋になくなって、様々な特集番組を見たり、お書きになったものを改めて読み直してみて、ハッ...
 

 さっき、フェイスブックで、山本太郎さんの年史年末の活動を知りました(http://saigaijyouhou.com/?no=9397)。国会での質問などに、市民の立場に本気で立とうとする姿勢に、場所は遠くても、感じる場面が何度もありました。釣りバカの浜ちゃんの映画に出るくらい、売れている俳優家業をなげうって、政治家になったのですから、裏献金などを受けずにやったら、持ち出しの方が多い、「儲からない稼業」の政治家になったのは、世間一般からすれば、「バカでしょ」という話になりやすい。

 今から42年前、1974年から、東京湾の谷津干潟を一人で掃除を始めた、森田三郎さんも、その掃除を始めた時には、「バカだぁ」「迷惑だぁ」と言われたといいます。それでも、子どもの頃に遊んだ干潟の掃除を、新聞配達の仕事をしながら、40年にも渡って、今現在も、続けておられます。当初あった埋め立て計画は中止になり、ゴミ捨て場になっていた谷津干潟は、ラムサール条約指定の湿地と認められるようになったそうです。

 何故だと思いますか?

 ゴミだらけ、悪臭だらけの谷津干潟を前にした時に、森田三郎さんには「谷津干潟の声」が聴こえたそうです。

 「おい、三郎! これがお前が小さい頃に遊んだ干潟だぞ、どうする?

 森田三郎さんは現在も谷津干潟の掃除を続けています。今でもゴミが舞い込む谷津干潟を前にして、森田三郎さんは「世界の海が綺麗にならないと、谷津干潟も綺麗にならない」とおっしゃいます。インタヴューアーの山本太郎さんは、谷津干潟の掃除を手伝いながら、「全部が繋がっているんですね」と応じます。

 山本太郎さん、いまは、谷津干潟の掃除ではなくて、「永田町の掃除」をしてくれています。山本太郎さんも、「声」を聴いたからだと私は確信しています

 私は、山本太郎さんが国会や町で、活動する姿をテレビやインターネットで拝見するたびに、谷津干潟の掃除を続けておられる森田三郎さんが心の耳で聴いたスピリット=「声」を、山本太郎さんは、国会で受け継いでくれていることを感じています。

 

 

NHK「たったひとりの反乱」(12,08/ 2009)より(2枚の写真とも)

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恵みの賜物

2016-01-01 14:53:31 | アイデンティティの根源

 

 

 
葛藤が知恵と強さをプレゼントしてくれる
  人を大事にすることは、葛藤がないことだ、と考えてしまうことは、大いなる誤解です。 p95下から13行目途中から。  &nb...
 

 

 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。年早々、神を冒涜するって、どういうつもり?

 Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、第2パラグラフ。残りのワンセンテンス新年早々、神を冒涜するって、どういうつもり? かが、何故だか分かるところ

 

 

 

 

 

マーク・トウェインはこう付け加えるかもしれませんね、「人って、最初に自分に恥をかかせた人は、死んでも忘れない」って。

 

 

 

 

 

 

 恥を最初にかくのは、トイレット・トレーニングをする1才前後のことですね。でも、その体験自体を覚えている人は、皆無に近いでしょ。1才のバースデーにあって事って、覚えていないのが普通でしょ。ですから、恥を自分が幼い頃にかかされているかどうかは、一見だれにもわかりません

 でもね、この時期に恥をかかされている人の特色ってあるんですよね。

1)強情

2)恥知らず

3)鈍い

 

他にもあるかもしれません。

 今日も、国会前を顔出し(今日も朝から、ぶ然とした顔してましたよね、見れない方ゴメンナサイ,でも、見ない方が良い? こういうこと書くから、ぶ然とするのでしょうか?)散歩して、神を冒涜していた、なか◎朗さんにも、この3つが当てはまるのも、当然かもしれません。

 幼い頃に恥をかかされ続けたことに、なか◎朗さんが気付き、なか◎朗さんが、そのルサンチマンから解放される日を、神様にお祈りして参りましょう

 また、なか◎朗さんの顔写真をフッエイスブックでご覧になれる人(共通の友人は2人ですが)は、林竹二さんの本の、「祈りの女の子」や下の写真の、祈るマザー・テレサの姿を比べたら。そのルサンチマンの姿と、信頼の姿の間の、雲泥の差が、ハッキリ分かります。そうでない方は、ゴメンナサイ。昨日のブログの女の子の写と下のマザー・テレサの写真から感じるものが、信頼と「祈り」の恵みの賜物(キリスト者の専売特許じゃぁない。この女の子も祈っているといっていいのですから。)だと、ご理解いただけましたら、幸いです

 

 

 

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人間って何物?

2016-01-01 10:53:36 | エリクソンの発達臨床心理

2016年 初日の出 皆様にとっても、善き年となりますように!

 

 
精神分析は、人格的真理を担当しない?
  本物の癒しこそが、ワーク・スルー。米沢興譲教会の田中信生先生の言葉で言えば「何があっても、大丈夫」。なぜなら、状況に左右されない「突き抜けた悦び」があるからな...
 

 本物のセラピストになるためには、クライアントの魂の親になることが必要です。クライアントの魂の親になるためには、感情転移と対抗感情転移の妙を、体験的に実感していることが、さらに必要です。でもね、感情転移のことを教科書で読むように、を頭で知るだけでは、とても対応できないものですよ。知的に捉えただけでは、無意識の暴力の圧倒的な力に、マンマと、飲み込まれちゃいますからね。体験的な、実感を伴うリアルな理解が、是非とも必要ですねっ。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p103の、9行目の途中から。

 

 

 

 

 

 

フロイトが、治療の場では感情転移と対抗感情転移のやりとりを、一番大事にしようと、革命的に決心したことから、精神分析は、人間の経験にある「発達上、あるいは、歴史上の相対性」を研究するための一番大事な研究法、しかも、臨床的で「応用的な」研究法となりました。しかも、このような研究法だからこそ、「人間って何物?」という普遍的な問いに、確かな答えを出せる研究法にもなったんですからね。

 

 

 

 

 結論に向かって、エリクソンの筆が冴えるところですね。普通の学問ですと、「人間とは何か?」という問いには答えません。普通の学問という場合、科学的学問ですね。

 ところが、「人間って何物?」という目的論的な問い(何のために生きるのか?というような存在の意味や目的を問うもの)に応えるのは、基本は、神学と神学から派生した哲学が担当します。そして、そこで問われるのは、科学的真理ではなくて、人格的真理ですね。心理学、特に臨床心理学は、科学的真理を含むのはもちろんなんですが、人格的真理を中心にする学問であることが、今日のエリクソンの議論を読むと、ハッキリ分かりますでしょ。

 

 

 

善い、初日の出でしたよ!

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大事な目的

2016-01-01 02:42:52 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
宇沢弘文先生に耳を澄ませば
  宇沢弘文さん、雑誌『世界』に載る論文を時々読むくらいでした。しかし、この秋になくなって、様々な特集番組を見たり、お書きになったものを改めて読み直してみて、ハッ...
 

 トラウマ研究も、クライアントの福祉に繋がるものであるべきなのは、トラウマ治療が、クライアントの福祉に繋がるものであるべきなのと同じです。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.224の、ブランクから。

 

 

 

 

 

 

 脱感作

 

ここ20年以上、心理学を学ぶ学生に教えられている、よく使われる治療法は、いくつかの体系化された脱感作です。この脱感作をすれば、クライアントは、いろんな感情や感覚に対して反応しずぎないで済むようになります。でもね、これは正しい目標と言えるでしょうか? 大事なのは、感じなくなることじゃぁなくて、癒されて≪本当の自分≫が生きることです。つまり、トラウマを負わされたことを、自分の人生という物語全体の中で、ちょうどいい場所に位置付けることです。

 

 

 

 

 

 こう言う文書を読むと、ヴァン・デ・コーク教授が、技術主義、技法主義でない臨床家であることが分かります。目的意識が強い、本物のプロフェッショナルであることが分かります。大事な目的を、≪本当の自分≫が生きることだと明確にしてくれています。

  

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