エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

いつでも役立つ、使徒パウロの臨床心理学

2016-01-22 08:43:55 | アイデンティティの根源

 

 

 
売り物は自分自身だ 三訂版
  「売り物は自分自身だ」。そう語るのは、最もセクシーな男性として2度評された、ジョージ・クルーニーさん。でも、クルーニーさん、セクシーなだけじゃぁない。非常に知...
 

 

 私どもは、「何のために」と自らに問う問いを忘れてはなりません

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.253の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターは、私どもが神様を知ることが出来ることを、私どもひとりびとりが誘惑を受ける時だけに限りましたし、私どもが祈りを捧げることが出来るのは、神様の独り子が十字架上で苦しみを受けたことをひな型にする時だけに限りました。この点で、全ての人間は、平等なんですね。フロイトは、心の「葛藤」の構造は、精神分析をすると意識することが出来ますし、すべての人にとって普遍的なものであることが分かりますけれども、私どもが自分自身を知るすべてだ、ということを明らかにしてくれました。しかし、心の「葛藤」の構造を知ることこそ、避けて通ることのできない知識であるだけではなくて、欠くべからざる知識であることも、明らかにしてくれました。心から懐疑的なフロイトがハッキリ示してくれたのは、人間の1番の義務は(理性的に内省することによって、ルターが何を見ようとも、あるいは、自分の人生が苦難であっても)、das Leben auszuhalten、すなわち、≪いまここ≫を生きる人生に踏みとどまること、持ち堪えることなんですね。

 

 

 

 

 ヒュポメノー≪いまここ≫に踏みとどまること。『新約聖書』「ローマ人への手紙」第5章3節。私どものあらゆる希望は、ヒュポメノー≪いまここ≫に踏みとどまることによって、はじめて可能になるものです

 この使徒パウロの臨床心理学が、ルターにも、フロイトにも役立ちました。それは、パウロの臨床心理学が、シモーヌ・ヴェイユにも、エリック・エリクソンにも役立ったのと同じです。

 

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エリックの文体

2016-01-22 07:51:49 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
本音と建前の一致
  糞づまりとは、ちょっとお下品でしたでしょうかね。 p176下から13行目から。   かなりしつこいために、抑...
 

 ライフサイクルの地図は、エリクソン自身が現実にアイデンティティの危機を乗り越えてきた、その賜物です。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」、p.5の4行目から。

 

 

 

 

 エリックは、とても慎重に物を書く人でしたから、出版した本のどのページも、いろんな批評に応えるものにしなくちゃって思ってましたね。私自身も、「エリックが私に言いたいことって何かしら」と思いめぐらしていました。どのように、こういったシッカリした注釈によって、以前の考えを改めることが出来て、人生の巡り合わせについて私どもの理解を深めてくれるのかなぁ、って、思いを巡らせました。

 

 

 

 

 

 エリック・エリクソンが、慎重な物書きであることは、文体ににじみ出ています。1つの文章がやたらに長い。関係代名詞や分詞構文などで、説明を幾重にも付け加える。漏れや不足や誤解を与えてはならない、って感じです。

 

 

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発達トラウマに効く薬がない!

2016-01-22 03:03:23 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
目暗ましがイッパイ
  知識と実地訓練を積んでいくと、直感力が付くと言います。 p5下から14行目途中から。    &...
 

 

 「貧困家庭の子ども等は、個人保険に加入している子ども等の4倍も、抗精神病薬を飲んでいます」と、ヴァン・デ・コーク教授は言います。これは、この抗精神病薬を服薬することになった精神病は、遺伝的であるというよりも、環境要因が強く働いている、すなわち、発達トラウマ、愛着障害だ、ということになるでしょう。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.228の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 私が第2章で議論したプロザックの研究は、発達トラウマのクライアントは、戦闘に巻き込まれた退役軍人よりも、薬に善く反応する傾向になることを示しています。それ以来、他の研究は、食い違いを示してきましたね。この観点からすると、国防省と在郷軍人局は、大量の薬を、戦闘員と帰還兵に処方しても、他のセラピーをすることはしなかったことは、気がかりなことですね。2001年~2010年の10年の間に、在郷軍人局は、15億ドル(1,800億円)のお金を、セロクエルとリスパーダルに使い、国防省は、9,000万ドル(100億円)のお金を、同時期に、セロクエルとリスパーダルに使ったけれども、2001年に出た研究報告書によれば、リスパーダルは、PTSDの治療に、偽薬程度の治療効果しかない、と示されていたのですけれどもね。同様に、2001年~2010年の10年の間に、在郷軍人局は、721億ドル(8兆円)、国防省は441億ドル(5兆円)のお金をそれぞれベンゾディアゼピン系の薬に使っています。ただし、臨床医は、この薬をPTSDのある市民に処方することを避けるのが普通です。というのも、この薬は依存性があるだけじゃぁなくて、PTSDの症状には薬効がないからです。

 

 

 

 

 

 こう読んできますと、発達トラウマに効く薬がないことが分かります。それと同時に、効かない薬に、国の予算が膨大に浪費されてきたこと、予算の無駄遣いであったことも分かります。これは何も、アメリカの話だけじゃあなくて、日本でも全く同じです。

 

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なぜ、日本の学校で、イジメがなくならないのか?

2016-01-22 02:12:51 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
売り物は自分自身だ 三訂版
  「売り物は自分自身だ」。そう語るのは、最もセクシーな男性として2度評された、ジョージ・クルーニーさん。でも、クルーニーさん、セクシーなだけじゃぁない。非常に知...
 

 なぜ、日本の学校には、イジメが後を絶たないのでしょうか?

 日本の組織は、日本軍がなくなっても、日本軍みたいな、イジメの組織、上意下達の組織であり続けている、ということが、大きいと、私は考えます。日本軍は、イジメの組織であると同時に、無責任体制の組織でもあります。これは、日本の組織が、いとも簡単に、無意識の暴力に晒されがちだ、ということなんですね。

 でも、従来の私は、イジメの問題を、組織が無意識の暴力にされさらているからだ、という所で、思考停止にあったと、感じています。それは、子どもと遊んでいて気付いたことなんですね。

 先日、東京でも雪が降りましたでしょ。雪+遊びとなれば、雪合戦ですね。私も「遊びのオジサン」ですから、どこの学校に行っても、子どもたちと雪合戦の毎日を過ごすことになりますもんね。先日も、ある学校で子どもたちと雪合戦になりました。その時には、クラスほぼ全員 vs 遊びのオジサン+4人 と言う対戦カードになりました。すると、クラスほぼ全員が、誰を狙うか? と言いますとね、やっぱり「遊びのオジサン」ということになりがちでしたね。20人くらいの子どもたちが、次から次へと、実に愉しそうに、遊びのオジサンを追いかけて、雪ツブテをぶつけてきます。遊びのオジサンも逃げながら、もちろん逆襲するんですよ。それでも、いかんせん、多勢に無勢。コテンパンにやられてしまいました。

 それで気付いたんですね。遊びのオジサンは、いくら雪ツブテをぶつけられても、逃げ回ったり、逆襲したり、「こんにゃろー」などと言いながら、雪ツブテをぶつけ返したりして、結構楽しいんでやりますよ。だからこそ、子どもたちも、楽しく、雪ツブテの集中砲火を加えてくることが出来るのでしょう。でも、これって、猛烈な攻撃性の表れでもあるんじゃないの? これが、特定の子どもに向かったら、すぐにイジメと言われるんじゃぁないの? って気づいたんですね。

 そうして、も一つ気付いたんですね。遊びの機能には、いつくかの機能があるんですけれども、その大事な機能の1つに、子どもが受け身で体験したことを、遊びの中で能動的に再体験することで、折り合いのつく体験にする、という機能があんですね。子ども等が、こんなに攻撃性を示すのは、大人(家でも母親、学校では教員)から、攻撃され、「侵襲的」な関わりをされているからではないのかなぁ? だからこそ、攻撃され、「侵襲的」な関わりをされている受け身の体験を、雪合戦の中で能動的に再体験して見せた、と言えるのではないのかなぁ?

 

 

 このように考えると、日本の組織が無意識の暴力にされされているだけじゃぁないですね。日々の母子関係、教員‐子ども関係が、上下関係、支配と服上の関係であることを止めて、やり取りのある関係、≪共に見る≫関係にしていかないかぎり、日本の学校では、イジメはなくならないなぁ、と実感した次第ですね。

 

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