エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

BIG HOPE

2016-01-24 10:53:49 | アイデンティティの根源

国立 滝乃川学園のチャペル十字架

 

 
国立市から 改訂版
  国立市。東京の小さな町。私の出身地。 国立市在住で最も有名な人はだれか? 山口百恵さんを挙げる人が多いでしょうね。 でも、私は生まれも育ちも国立市谷保...
 

 

 私どもは、心の中に、あの子供がおられる、と気付いたかどうか、は、眼の前の子どもに対する見方を180度転回してくれます

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.253の、第4パラグラフの7行目途中から。

 

 

 

 

 

ルターもフロイトも、単独になって人が、自分自身がヒュポメノー、すなわち、≪いまここに踏みとどまっていること≫が大事だとに気付く内省の方法を、完全に身につけました。この2人は、また、≪いまここを生きること≫のもう1つの極致、すなわち、世代を跨って人は関わり合っていることも、もっとハッキリと主張しました。というのも、ひとりびとりの子どもの中にある、新生のあの寄る辺なさと、新生のあの希望と向かい合う時だけ、心も大人になった人(女の人も含まれます)は、イキイキと生きて、あれこれと動き回るという 取り消すことが出来ない、やり取りのある関係に気付くことが出来るからです。

 

 

 

 

 ここも、西平さんの翻訳は見ない方が良い、典型ですね。ヒュポメノー、pathienthoodは、患者性ではないからです。自分のpathienthoodに気付くとは、≪いまここに踏みとどまっていること≫が大事だとに気付くなんですね。

 心の中にいる子どもは、寄る辺なさ・無力と希望が同居しています。まるで、十字架上の神の独り子と一緒です。論理的に説明することは、非常に難しいのですが、この神の独り子と同様に、無力と希望が同居していることに気付くと、はじめて、イキイキとした世代を超えたやり取り、突き抜けた悦びを感じあえる関わりが出来るのですね。

 エリクソンが言いたいのは、他でもありません、≪いまここに踏みとどまる≫ということが大事と気付くことを通じて、はじめて、人はイキイキとした、悦びに満ちたやり取りのある関係ができますよ、ってことですよ。

 

 

 

 

 

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「叡智」と「まとめる力」

2016-01-24 10:29:09 | エリクソンの発達臨床心理

 
『不思議を感じる感じ』 より
  昨日で『人を大事にする術』の翻訳が完了。 今日は、レイチェル・カーソンのThe Sense of Wonder 不思議を感じる感じ から p52。&n...
 

 

 エリックとジョアンは、共に人生の巡り合わせの地図を、半世紀以上の歳月を費やして、文字通り命がけで、編み出したのでした。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」、p.5の、第3パラグラフの6行目途中から。

 

 

 

 

 

1940年代初め、人生の巡り合わせで力となる倫理的態度に一番ふさわしい言葉を、あれこれと探している時に、私ども2人は、「叡智」と「まとめる力」を、高齢期に成熟するようになる最後の生きる力に選びました。私どもは最初、「希望」も高齢期に成熟するようになる最後の力と考えたんですけれども、そして、それは、希望こそが私どもが生きていくうえでなくてはならないものだからですし、他の生きる力にとっても必要なものだからですが、希望は、赤ちゃんの頃からずっと必要不可欠なものですから、希望は一生持続するものであるとしても、希望が熟するのに長々とした時間が必要なわけでは必ずしもありません。「叡智」と「まとめる力」を高齢期の生きる力として名付けた後で、私どもは今までずっと、この言葉を選んだことが果たして正しかったのかなぁ? って、あれこれ考えてきました。

 

 

 

 

 エリクソン夫妻は、半世紀以上を掛けて、言葉1つでも吟味し続けていたことが分かります。たんに、学問的なものでもないことも、ハッキリと分かりますよね。

 

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楢葉町の住民帰還事業は、人類に対する犯罪だ! 改訂版

2016-01-24 09:19:22 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
国立市から 改訂版
  国立市。東京の小さな町。私の出身地。 国立市在住で最も有名な人はだれか? 山口百恵さんを挙げる人が多いでしょうね。 でも、私は生まれも育ちも国立市谷保...
 

 昨日の晩に、福島県楢葉町の住民の帰還が、なかなか進まない現状を伝える、NHKスペシャル「東日本大震災・原発事故5年 ゼロからの町再建 楢葉町の苦悩」と言う番組を見ました。9月5日2015年に、「避難指示」が解除されました。しかし、避難前の楢葉町の住民7,400人の内、実際に町に戻ったのは、高齢者を中心に400人ほど、人口の6%に留まっていると、この番組は伝えています。

 ですから、上下水道、電気・ガスなどが使えるようになり、コンビニも楢葉町にはあるそうですが、大型スーパーや病院などは、まだないそうです。経営できるだけのお客さんがいないからだそうです。でも、なんで住民が戻らないのか? について、この番組では、本当のことは報道しませんでしたね。

 日本には、一般の日本市民が被ばくしても仕方がない、とする被爆のレベル(線量被ばく)は、一年間に、1ミリシーベルト(mSv)以下にしなくてはなりません。これは、放射線障害防止法「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律
(昭和三十二年六月十日法律第百六十七号)
」という法律で決められていることです。この法律には、放射線技師など、放射線を活用した仕事をする専門家には、年間20mSvという別の基準があります。(https://www.jrias.or.jp/disaster/pdf/20120213-134623.pdfhttp://law.e-gov.go.jp/htmldata/S32/S32HO167.html

 しかし、放射線には「安全」の閾値はありません。放射線の専門家の山本義隆さんや、小出裕章さんの言葉です(http://www.dailymotion.com/video/x34x391)。

 ところが、小出裕章さんによれば、今の日本はまだ原発事故後の「緊急事態宣言」が出ている状況だそうです(http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4220.html)。一般市民の被ばく限度が、年間1mSvから、専門家にしか許されない年間20mSViに、上げられたままになってしまっています。楢葉町の住民の被ばく限度は、年間1mSvではなくて、専門家にしか認められないはずの20mSvが適応されているのですね。これって、果たして、日本市民の命を守っていることになるのでしょうか?

 いまにフクシマ原発から、東電社長の広瀬さんは、「最大で1日あたり最大200億ベクレルのセシウムが放出されているとみている」と言っているくらいです。

 小出裕章さんは、日本外国特派員協会での講演で、

「この4号機の半分壊れた原子炉建屋の中に、使用済み燃料プールが宙づりになっているのですが、そのプールの底には広島原爆に換算すると、約1万4000万発分のセシウム137が含まれていました。それがプールの底で発熱を続けているわけで、プールの水が干上がってしまって、燃料が溶けるようなことになれば、「東京すら放棄するしかない」と当時の原子力委員会の近藤駿介委員長が報告書を出しました。」

とおっしゃっています(https://www.youtube.com/watch?v=nCbXX3DURd0)。

 フクシマ原発事故は、アンダー・コントロール、作業が進んでいるのではなくて、アウト・オブ・コントロール コントロールできず、いまも、放射能が撒き散らされている状況が暴走している訳です。

 フクシマ原発は、漏れた放射能汚染水で、「放射能汚染水の沼」になっていると言います。

 いまも、フクシマ原発は、放射能の泥沼にあり、フクシマ原発から、放射能が撒き散らされているのが、日本の偽らざる真実の姿なのですね。

 そんなところに、一般市民である楢葉町の住民を戻していいのでしょうか?

 そんなところで、オリンピックなんぞをしていていいのでしょうか?

 私は、楢葉町に一般市民を戻すことは、全人類に対する犯罪 だと確信します。

 今のニッポンは、オリンピックなんぞをしている場合ではない と確信します。

 

 

 

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ビルの症状とその改善

2016-01-24 05:34:03 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
歴史と個人を作る力
  自分を確かにする感じ、時代さえ変えてしまう力があります。 p177第2パラグラフ。    &n...
 

 ヴァン・デ・コーク教授は、患者から学ぶ人だから、頼りになります。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.229のブランクの後の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ビルは衛生兵として、ベトナムでは1967-71年従軍しました。そして、帰国後、軍隊で身に着けた記述を使って、地元の病院の火傷治療室に勤務していました。看護をすれば、ビルはクタクタになり、癇癪を起し、イライラするのですが、それが、ベトナムで経験したことと関係があるなどとも、思っても見ないことでした。結局、PTSDの診断がまだなくて、アイルランド系の労働者階級の人はボストンでは、分析医に相談することもありませんでした。ビルの悪夢と不眠は、ビルが看護業務から離れて、牧師になる口座に登録した後では、軽くなりました。ビルは最初の息子が1978年に誕生するまで、助けを探したりしませんでした。

 

 

 

 

 

 不眠と悪夢と言ったら、いまではPTSDの典型的症状ですが、当時はまだよくわからなかったみたいですね。衛生兵として働いたビルが、その経験に近い看護業務をすると、その症状が出たのですが、その業務から離れると、症状も緩和したとも言います。こういったことからも、PTSDの性質をりかいしていったのでしょう

 

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