エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悪魔の夢中 悪魔と一緒

2016-01-04 08:41:13 | アイデンティティの根源

 

 

 
ガンディーの課題解決法
  臨床では、自分が生活している時の倫理、建前の倫理ではなく、本音の倫理が物を言いますよね。自分の声を日頃から聴いて居れば、小さな子どもでも、すぐに気づきます。「...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。闇が一端、病みになったら、なかなか止まりませんね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.249の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 でも、結局、ルターは、切っても切れない間柄で、悪魔と共存することになりました。お互いに相手を、ホットケナイ訳ですね。それは、頑固に、父親やローマ教皇にこだわったのと同じです。プロテスタントが悪魔みたいに夢中になることに、ルターが一口噛んだだけなのか、それとも、ルター自身が始めたのか、私には分かりません。

 

 

 

 

 

 悪魔みたいに夢中になることなしの、資本主義が成立しなかったことは、マックス・ウェーバーに詳しかったですね。資本主義が成立するためには、「神の栄光」を実現したい、というプロテスタントの倫理が必要でした。

 夢中になること自体は、中性的、善くもなれば、悪くにもなります。赤ちゃんの時の母親らの世話も、夢中になったほうがいいくらいでしょ。でもね、夢中に言うよりも、ムキになっている国会前散歩のように、神の栄光」に泥を塗る例もありますから、要注意! それは、悪魔の夢中悪魔に魂を奪われている夢中です。

 

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人生9番目の舞台

2016-01-04 07:02:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
お役所仕事の狂気 その2 改訂版
  お役人はウソを言うのが仕事なんですね。それも平然として、何事もないかのようにウソを言います。詐欺師と何の違いもない。しかも、税金で給料もらってこれですからね、...
 

 臨床場面をよくよく観察していくと、根源的な人間力芯のなりやすい心の乱れの両方がよく見える、というのは至言ですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」に入ります。p.1の始めから。

 

 

 

 

 

 完成版の前書き

 

 『人生の巡り合わせ』の完成版(拡大版)が、前の版を超えているのは、人生9番目の舞台の要素を付け加えた点です。この9番目の舞台は、人間関係を心理的に見た時の発達を、エリクソン学派の人達がもともと研究する時に、予測してなかった舞台です。この新しい素材に関して論じるためは、8番目の舞台に着目した、自伝的な記述が必要です。この8番目の人生の舞台が、元の版の『人生の巡り合わせ』では最後の舞台でしたね。

 

 

 

 

 昨年の3月の末に、この本の第2章から翻訳を始めて、8割方の翻訳が終わりました。末尾の2節には、この前書きで触れられている、人生の9番目の舞台が登場します。その前に、この完成版の前書きに触れておいた方がベターじゃないかな、と考えました。

 それこそ、エリクソンの人生の晩年に、「なんで、9番目の舞台なの?」という点に、エリクソンが応えてくれているからです。

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ノーマーク  宗教程、恐ろしいものはない!

2016-01-04 02:59:54 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「自分の暮らしは脆いものだった」と気付くとき
  ここ20年以上、日本は息詰まっていると感じている人がとっても多い。閉塞感を感じている人がとても多い。それは、言葉を変えれば、原理や信念を失って、不安に思い、眼...
 

 

 私は、いまでこそ、臨床心理学徒なんですけれども、大学時代は、政治思想史の勉強をしていたんですね。藤原保信先生の門下生の端くれです。一年生の政治思想史の藤原保信先生の授業では、プラトン、ルソー、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバーなどを読んだ記憶があります。対話形式の授業で、今から考えたら、白熱授業のマイケル・サンデル教授のような授業でしたね。私は、関心が主として近現代にありましたから、マックス・ウェーバー、大塚久雄先生、丸山眞男教授、エーリッヒ・フロム、それから、藤原保信先生、宮田光雄先生、武田清子先生…の本は比較的よく読みましたかね。藤原保信先生の著作集は買わなかったのに、『丸山眞男集』、『宮田光雄集』は買って、いまでも、愛読しています。藤原保信先生、ゴメンナサイ?

 ちょっと、くどかったかしらね。

 先日のテレビ「100分de平和論」で、高橋源一郎さんが取り上げた、ヴォルテール『寛容論』は一行も読んでないばかりか、ヴォルテール自体がノーマークで、一冊も読んだことがありませんでした。

 そのテレビで、高橋源一郎さんがトゥールーズであった冤罪事件を取り上げます。というのも、この冤罪事件が、ヴォルテールが「寛容論」を書く契機になったからです。トゥールーズは、カトリックがプロテスタントを虐殺してきた歴史のある町だとか。この冤罪事件も、プロテスタントの商店主を、無実なのに、死刑にしてしまった『寛容論』は、カトリックがいかに不寛容で、その不寛容が、いかに暴力と虐殺を生むかを告発し、寛容を説く書になっているのでしょう。その寛容が目指す世界が、昨日のブログでも紹介した「人類皆兄弟」のヴィジョンでしたね。しかし、キリスト教は「愛の宗教」なのに、実際は、一番の悪の元凶になっていたわけです。それは、当時のカトリックが、世阿弥の言う我見だけの宗教になっていたからですね。我見だけになっている宗教程、怖ろしいものはありませんね。離見も、離見の見もない宗教は、すでに宗教の名の値しませんからね。神の視点こそ、「離見の見」の最たるものなのに、神の視点がない「宗教」神の視点がない信頼などというのは、言語矛盾であるばかりか、狂気そのものです。そして、これは昔話ではないことは、皆様もご承知のところですよね。

 もう1つ、ハッキリさせておきたいことがあるのですが、それはまた、明日。

 

 

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(発達)トラウマ治療に、脱感作も効かない!?

2016-01-04 01:19:25 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
ガンディーの課題解決法
  臨床では、自分が生活している時の倫理、建前の倫理ではなく、本音の倫理が物を言いますよね。自分の声を日頃から聴いて居れば、小さな子どもでも、すぐに気づきます。「...
 

 痛みの脱感作をすると、いろんな気持ちを敏感に感じることが出来なくなっちゃう。痛いのも困るけど、気持ちに鈍感になるのはもっと、困った困った。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.224の、下から3行目から。

 

 

 

 

 

 イラン戦争とアフガン戦争がもとで、新たにPTSDと診断された人で、退役軍人省で治療をしてもらいたいと思った、49,425人の退役軍人に関する2010年の報告書によれば、10人に1人も、薦められている治療を実際にはやり切れていない、ということでした。ピットマンのヴェトナム帰還兵の研究にあるように、暴露療法は、最近も行われてはいても、退役軍人のPTSD治療に効いたためしがほとんどありません。私どもが、身の毛もよだつ、いろんな経験を「自分の経験に仕上げる」ことが出来るのは、その身の毛もよだつ、いろんな経験によって、私どもが圧倒されない場合だけでしょ。つまりは、トラウマ治療のためには、脱感作以外の治療法が必要だ、ということです。

 

 

 

 

 

 

 CBT 認知行動療法も、トラウマ治療のあんまり効かない。脱感作も、トラウマ治療にあんまり役立たない。そうすると、困るのは東大の下山晴彦さんだけじゃぁなくて、兵庫教育大の冨永さんも困りますね。

 

 

 

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