エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人生の危機をどのように生きてますか?

2016-01-30 12:35:40 | アイデンティティの根源

 

 

 
豊穣なる土壌
  感じることがあらゆる叡智の源です。カーソンさんとエリクソンは、この点で完全に一致しています。 p56の2行目途中から。  ...
 

 世界が変わるのは、独りが変わることから。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.254の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自分を確かにできない危機を議論する時、私は心理社会的な危機の性質を、少なくとも、それとはなしに、示してきました。ある年齢において、人間は、身体も、知性も、情緒も育ちますから、人間は新たな人生の危機と向かい合う心構えも力も手に入れます。すなわち、人生の危機とは、選択と試練のことですが、これらは伝統的なやり方で、社会の仕組みが当人に対して、もたらすものです。新たな人生の危機には、その結果が上手く解決することが出来る場合もあれば、そうはいかずに、将来いろんな危機をいや増すことになる、人生の巡り合わせが狂う場合とがありますね。

 

 

 

 

 

 人生の危機は、うまく解決する場合と、解決せずにさらに将来の危機を悪化させてしまう場合があるようですね。それは私どもの人生の危機に対する実感とピッタリですね。

 どなたでも、人生の危機をその度毎に、上手く乗り越えて、卒業したい、と願うものでしょ。このエビロークで、エリクソンは、その勘所を教えてくれていますから、どうぞご期待下さいね。

 今日初めて当ブログをご覧になった方も、『青年ルター』のこの終章だけでも、いい学びになりますから、お付き合いくださいね。

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霊的な教育者 : 見えないからこそ、見えてくるものがある

2016-01-30 10:28:38 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)
 
最近の「追いかけっこ・鬼ごっこ」から見えたこと。
  私は小学校のカウンセラー。子どもには「遊びのオジサン」と呼ばれています。子どもたちが好きな遊びといえは、氷鬼やケイドロなど追いかけっこ・鬼ごっこ。英語ですと、...
 


 「叡智」は、「見て知る」ことから。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」、p.6の、第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ものが見える賜物を得ている人が、ものが見えない暮らしがどんなものになるのかを考えることは、痛ましいことですから、そういったことを考えないようにしがちでしょ。物を見る眼を洗得られなかった人たちは、おそらく、聴く力、嗅ぐ力、味わう力、触れる力を、かなり発達させるのでしょうね。ものが見えない人らが他の感覚を広げて鋭くすることで、どれほど豊かになっているのかは、誰にもわかりません。多分ものが見えない人からすれば、私どもはものが見えることに頼り過ぎてて、実際には見えなくなっていることがある、ってことを知ってますね。

 

 

 

 

 

 眼の見えない人が、実は物事をよく見ていることがあることが、実際ありますよね。そう言って思い出すのが、共働学舎を作った宮嶋眞一郎先生ですね。目は見えない代わりに、心の眼、一隻眼がある感じの本物の魂の教師、霊的な教育者でした。

 眼が見えないことが、洞察力と判断力を研ぎ澄まし、眼に見える世界を超越する世界に開かれることがあります。 

 

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霊的な教育は、独立だぁ! 改訂版

2016-01-30 08:36:06 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
脆さが強さになる時
  キリスト教の英雄時代は、パウロの時代らしい。 p178の第3パラグラフ。      初期キリス...
 

 霊的な教育の続きです。

 内村鑑三は、独立を大事にしました。内村の教育を受け継いで、鈴木弼美(すけよし)が山形県小国は叶水(かのうみず)に作った学校が、「基督教独立学園」と「独立」を冠するほどです。この独立とは、どういうことを言うんでしょうか?

 基督教独立学園高校のHPによれば、

「「神を畏るるは学問の始め」(箴言1:7)を教育の基軸に据える本校にとって、朝拝・夕拝と日曜礼拝は、学園生活の必須の要です。聖書の言葉に毎日触れながら生活し、思索し、祈り、正直に「自己」と「真理」を探求する。入学時に校長と交わす「契約の書」に立って、どこまで「嘘のない生活」ができるか格闘する。その中で「神を畏れて、人を恐れない」(内村鑑三)、真に自由で自律的な独立人を育てたい。

 人が独立するためには、「神を畏れて、人を恐れない」ことが必要みたいですね。これは、日本人に多い行動様式からすると、正反対の態度です。多くのニッポン人は、「人間を上下2つに分けるウソ」を盲信していますから、それぞれこの世の「ムラ社会」に依存してんですね。「ムラ社会」は、会社だったり、学校だったり、ある部局だったり、町内会だったり、様々です。ニッポン人は、それぞれの「ムラ社会」の「上」に対しては、手もみ、肩もみ、オベンチャラ、「下」に対しては、アザケリ、陰口、村八分、と相場が決まってますからね。

 独立の人は、基本はパレーシアステス。自分より、立場の強い人に対しても、「義」を大胆に主張します。むしろ、年下や、社会的に不利な立場の人の話を虚心坦懐に聴く立場です。中江藤樹先生の話でも、藤樹のもとを訪ねて来た岡山藩主は待たせておいて、村の子どもに対する講義を優先する話が出てきますでしょ(岩波版、p126~127)。

 でも、神も仏も信頼しない人はどうすればいいのかしら? と心配になる人もいるでしょう。それも、基督教独立学園のHPから引用した「教育の基軸」にヒントが隠れていますよ。それは「正直に「自己」と「真理」を探求する」ということ。「自己」は「我」を超越するもの、「真理」は「この世」を超越するものでしょ。そういう≪超越≫を求めてないと、独立は無理。中江藤樹先生も、≪天の法≫と言う≪超越≫に従っていたからこその独立でしたね。

 手もみ、肩もみ、アザケリ顔の日々を、あなたは生きたいですか?

 それとも、自由、自律、独立の日々を、あなたは生きたいですか?

 

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ホットヨガはいかが?

2016-01-30 02:37:38 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
豊穣なる土壌
  感じることがあらゆる叡智の源です。カーソンさんとエリクソンは、この点で完全に一致しています。 p56の2行目途中から。  ...
 

 ビルさんは、ヴァン・デ・コーク教授を如何に信頼していたのかが、行間から感じ取ることが出来ますね。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.230の、第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ビルは地元のビクラム・ヨガ教室を見つけました。ビクラム・ヨガ教室は、若者や活動的な人々向けの、激しいホットヨガです。ビルはこのビクラム・ヨガが大好きで、ビルは教室で時々身体が崩れ落ちちゃってもヘッチャラです。ビルは体が不自由でも、それまで感じたことのない、身体が喜ぶ感じと、身体をコントロール出来ている感じとを感じることが出来ました。

 

 

 

 

 

 ヴァン・デ・コーク教授にとっても、ビルさんにとっても、ヨガとの出合いは、人生を変えるものであったに違いありませんね。

トラウマがあると、自分の身体なのに、自分でうまくコントロール出来てる、という実感がないのでしょう。それは、戦争トラウマでも、発達トラウマでは変わりませんね。

 私は、自分で自分のコントロールが出来ていないと感じているはずのお母さん、自分で自分のコントロールが出来ていないと感じている教員に、ほぼ毎日会ってますからね。

 今度その人たちにも、ホットヨガでも薦めてみましょうかね。

 

 

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