偉人は先取り
ダーウィン、コペルニクス、フロイト。世界の見方を変えた人。 p178の6行目途中から。 ...
教育哲学者の大田堯先生の『教育とは何か』(1990年、岩波新書 新赤版105)を読みますとね、教育は、パーソナルであると同時に、パブリックなものだと言いますよね(P.180)。これって、どういうことだと思いますか?
まず、教育がパーソナルなものということの意味ですね。パーソナルということの意味は、分けることが出来ない個人(in[否定]-dividual[「分ける」と言う意味])と言う意味だそうですね。ちょっと響きがバタ臭いかもしれません。もっと日常的な言葉で申し上げますとね、「かけがえのない一人」と言う意味、「その人ならではの生き方が出来ること」と言うほどの意味だと申し上げて、大過ないだろうと考えます。
エリクソンの言い方で言い換えますとね、「自分を確かにさせる生き方をする」ということです。「アイデンティティ」と言われても、実感のある言葉じゃないでしょ? もう何年もの間、毎日毎日エリクソンを読んできても、「アイデンティティ」ってだけ言われたら、実感が弱いですもんね。「自分を確かにされる」と言われたら、だいぶ感じが違います。私の感じですとね、「湧き上がる悦びがある感じ」+「柔軟に相手に合わせられるしなやかな感じ」+「相手がどう出ようと、揺るがない感じ」+「楽しいんだけれども、同時に、厳かな感じがする感じ」…、が「自分を確かにする生き方」にはありますね。そういう生き方を、子どもにプレゼントすることが、教育です。もちろん、そういう生き方をプレゼントするためには、プレゼントする大人が、まず「自分を確かにする生き方」をしてないとね。
それからパブリック。大田堯先生は、「パブリックはピープル(people)がカギになる言葉で、人びとの、人びとによる、人びとへの、といった開かれたもの」だ、といいますね(p.180)。まるで、リンカーンのゲティスバーグ演説の件みたいでしょ。普通の言葉で言えば、公園や川の掃除を地元の人が一緒にする時みたいに、子どもを教育することを、その地域の人が共同作業で進める、って感じですかね。エリクソンが言うように、「新しい世代」を共同で創り出す感じ。ですから、教育は、親ばかりが責任を持つものでもなければ、親が、学校や教員を選ぶと言った恣意に委ねて良いものでもない、というのが、大田堯先生のご主張です。時と場合によっては、やっぱり、親のやり方に文句を言ってもいいわけですね。
今のニッポンの教育には、この「パーソナル」な教育も、「パブリック」な教育も、どちらも欠けている感じがするのは、私の思い違いですかね?