今朝も、寺本松野さんの言葉。
信仰をもってターミナル・ケアを行うことは、
私のこのうえないよろこびになつています。
死に向かい合っている人の不安の受け皿として、
私の信仰が役に立つのです。
それは生と死いずれの時も希望があるからで、
その希望を共に分かち合うことができるからです。
死ぬ希望もある、ってことを、知っているだけでも、大事でしょ。
今朝も、寺本松野さんの言葉。
信仰をもってターミナル・ケアを行うことは、
私のこのうえないよろこびになつています。
死に向かい合っている人の不安の受け皿として、
私の信仰が役に立つのです。
それは生と死いずれの時も希望があるからで、
その希望を共に分かち合うことができるからです。
死ぬ希望もある、ってことを、知っているだけでも、大事でしょ。
ミラノコレクションの服を着た殺人鬼rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」と「人間を上下2つに分けるウソ」が結びつく時、悪魔の働......
発達トラウマ障害(DTD)≒愛着障害の子ども。コナー君には、アイコンタクトが大事たけれども、見つめ続けるのは、特別な場合だ、ということも具体的に教えなくてはなりません。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.148の、第5パラグラフの、3行目途中から。
コナーが知りたがったことは、何秒間、相手を見るのが良いのか、ということでしたが、もちろん、それを教えることなどできませんでした。というのも、それは、行動を促す言葉にならない合図や文脈次第だからです。私はコナーに教えようとして3秒待ちました。しかし、その結果、コナーは喚き出し、事態は悪くなりました。コナーと私は、対人スキルの学びを続けていけば行くほど分かったのは、私どもは対人関係で行動を促す言葉にならない合図を想像以上に使っていますし、それを教える方法はない、ということでした。
ブルース・ペリー教授も、実に謙虚でしょ。出来ないことは出来ないと正直です。
発達トラウマ障害(DTD)の子ども。治療がうまくいくのは、治療が共働という泉と、安全、やり取り、想像力という生得的な応答性を活用できた場合です。
The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.358の第2パラグラフから。
トラウマがあると、いつでも、私どもが脆い存在で、人がいかに薄情なのか、ということを、思い知らされる一方で、私どもは飛び抜けて不屈の粘り強さがあることにも思い至りますね。私が(発達)トラウマ治療を長い間してきた、その訳は、悦び、創造性、生きる意味、繋がりの源を探し求めることになるからです。これら全てこそ、人生を価値あるものにすることでしょ。私のたくさんな患者さんたちが耐えていたことに私が折り合いをつけることが果たしてできるのか、想像すらできませんし、患者さんたちの症状は、患者さん自身の強さであり、生きるために身につけなくてはならなかった生き方だとも思います。あらゆる苦難にもかかわらず、多くの患者さんたちは、愛すべきパートナーとなり、親になり、模範的な教員、看護士、科学者、芸術家になっていますよね。
本物は、実に謙虚ですね。
サイコセラピーをしていると、実に不思議な体験をすることが本当に多いんですね。
先日も、学会の読み上げ原稿を作るためにユングC. G. jungの著作集の第9巻第1部を読んでいましたら、この間、高校生がコラージュで語っていたことと、全く同じ話をしているんですね。高校生の話は、プライヴァシーの問題がありますから、デフォルメして記すことにします。
この高校生は、家族間関係が極めて深刻です。病態も非常に重度です。具体的には記せません。でも、このケースは例外ではありません。小学校低学年の時くらいに、キチンとセラピーをしていれば、ここまで重度にならなかったのに、というケースが、高校生くらいになると、溢れているんです。発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子どもが、セラピーもせず、学校でも、見当違いの虐待を受けて、症状が重度化している訳です。率直に言って、どこの高校で自殺や反社会的行動が起きても不思議ではない、と言える状況が、悲しいかな、今のニッポンの偽らざる現実なのです。
それで、この高校生のコラージュ。コラージュのストーリーとして、この高校生は次のように語ります。
「私が船に乗っています。その船は海に沈んでいきます。するとそこに、以前の明るい私がいます。その時、その明るい場所で、私は1輪の花を眺めています。その1輪の花を、私は誰かに上げたい」。
これと同じ話が、ユングの文献に出てくるのです。ユングが「心の旅」について語っている、昨日引用した文獻と同じです(The Collected Works of C. G. Jung, vol9-1)。
「私どもは、水の旅に出て、下に向かった旅をしなくちゃならないことは、確実なことです。私どもが宝物、あの父からの貴重な遺産を拾い上げたいと思えばね。グノーシスの魂の讃歌には、その息子は両親から、王様の王冠から零れ落ちた真珠を探すために、送り出されます。その真珠は、深い井戸の底にあり、龍に守られているんですね…その息子は、水の旅に出て、その井戸の暗い深みに突き進みます。その息子は、井戸の底で、その真珠を見つけ出し、最後にその真珠を、最高の神様に捧げます」。
この高校生がユングの著作を読んでいる訳がありません。グノーシスの「魂の讃歌」を知っているはずがありません。しかし、この高校生は、自分の心の旅がどうなるのか、を、ひどい家族関係と、重度の心の病気の中にありながら、すでに知っているんです。本当の自分に出会い、素晴らしい生き方ができるようになるのは、確実です。