エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

神戸と津久井の間に知的障害者の首1つ

2016-08-04 07:32:23 | 間奏曲

 

だいぶピンボケ

 

 

 

 
聴く力
   ウソとゴマカシの極北 親愛なる友よ 第二弾  欲がなさそうに見える母親が、子どもに対して強い敵意を抱いている、というのは、驚きですね。 p57下か......
 

 神戸と佐世保は、繰り返し注目すべき子どもの事件がありました。タイトルの「神戸」とは、1997年、「酒鬼薔薇聖斗殺人事件」のことです。この事件では、14歳の少年が2名の子どもを殺し、3名の子どもに怪我を負わせた事件です(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。

 タイトルで「津久井」というのは津久井やまゆり園の事件のことです。

 この2つの事件は、世間に圧倒的な衝撃を与えた点でも共通していますよね。

 でも共通的は、それだけではありません。

 2つの事件は、知的障害者の首を切った点でも共通しています。

 神戸では、「酒鬼薔薇聖斗」のご近所に住む11歳の知的障害児の首が、校門に晒し首になっていましたね。

 津久井では、植松聖(さとし)容疑者が務めていた知的障害者施設「津久井山ゆり園」利用の知的障害者が40人以上首を切りつけられて、その内の19人がなくなっています(http://mainichi.jp/articles/20160802/k00/00m/040/060000cなど)。

 何故なんでしょうか?

 首は動脈があって、致命傷を負わせやすいから?

 酒鬼薔薇聖斗にしても、植松聖にしても、教育が至らなかったから、事件を起こしたのでしょうか?

 知的障害者は、極めて弱い立場でしょ。ですから、自分の中の「ダメな自分」を投影するのに恰好の相手です。言葉を換えれば、知的障害者は、心の中のルサンチマン(強い恨み)を晴らす時のスケープゴートになりやすい。そのルサンチマンは、まず家庭で積み重なったと考えられます。しかし、ニッポンの学校は、ヴァン・デ・コーク教授が紹介しているような自由主義の学校ではありません(良い教育には、自由が必要)。ニッポンの学校は、会社が儲かるためには、不正や長時間労働があっても、従順に働く労働者を創り出す「ロボット絶望工場」と化していますから、酒鬼薔薇聖斗も、植松聖も、そんな学校でも、ルサンチマンを一層強めていたと考えて、大過ないでしょう。その特色の一つが、アメリカの自由主義の学校とは真逆で、「自分の気持ちを理解し、対処するためにはどうすればいいのか」が教えてもらえないばかりか、自分の気持ちを抑えつけ、我慢させられることに力点が置かれます。それが、気持ちと思考の分裂、自動運転している自分と≪本当の自分≫がバラバラ、を強化する結果になっちゃっている訳ですよね。

 その分裂、そのバラバラのシンボルが、切り裂かれた「首」なんですね。

 

 

お寒い状況です。

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発達トラウマ障害(DTD)のセラピーは、根源的信頼感が勝負

2016-08-04 04:03:00 | トラウマを負う≪本当の自分≫を取り戻す

 

 

 
≪私≫が生まれるのは、ゆとりから
  二律背反をまとめることは簡単なことじゃぁない。しかし、それをまとめることは、健全で、尊く、人を癒す力があるようですね。 Young Man Luther 『青年ルタ......
 

 

 Paul Frewen , Ruth Lanius (2015) , Healing the Traumatized Self   consciousness, neuroscience, treatmet 『トラウマを負わされた自分に対する囚われから自由になること  意識、脳科学、治療』の翻訳。 発達トラウマ障害(DTD)の子どもが、無言のうちにも、大事にされていることが伝わるセラピーが、最も優れたセラピーです。

 最終章の第7章、p.280から。

 

 

 

 

 

 段階を踏んだトラウマ治療の間中、臨床家はクライアントが成長し、信頼感の中で連帯を示すことを支援することが欠かせませんね。その信頼感は、「あなたは変れます」、「治ります」と言葉に出来る位の信頼感です「あなたは変れます」ということに対する信頼感を伝える際の、セラピストの泰然自若たる態度が安全基地になり続けますから、そのクライアントも「自分は治る」とだんだんと信頼を増し加えることができます。さらには、セラピストがクライアントを、不屈に、断固として、いつでも、信頼し続ける確信がクライアントを安定させるわけです。そのセラピストの確信のお陰で、クライアントが自分を信頼できなくなったり、辛い目に合ったり、「治らないかもしれない」と疑ったりする時でも、クライアントに心のエネルギーを提供することができます。

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のクライアントは、根源的信頼感が全く脆いものです。

 発達トラウマ障害(DTD)のセラピーは、したがって、セラピストの根源的信頼感がかなり豊かでなくてはできません

 

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音楽が最初の言葉

2016-08-04 03:16:28 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
感覚を磨くことが、叡智の源
  「善意の暴力」は、人間らしい叡智で撃退できますから、叡智を働かせて生きましょう! The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p......
 

 

 発達トラウマ障害DTD愛着障害の子ども人生一番の時計を自覚できたものは幸い。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.144、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 実際、言語発達の理論の中には、人は歩けるようになる前から、踊ったり、歌ったりし始める、という理論もあるくらいです。その言語発達理論によれば、音楽こそ最初の言葉だ、という訳です。赤ちゃんは、話し言葉の音楽面、すなわち、声の音色の意味などのことですが、それを、話し言葉の中身よりも前に、理解し始める、ということは本当のことです。人々は世界の何処ででも、高い声で赤ちゃんに、面白いことですが、ペットにも、話しかけますでしょ。高い声は、子どもを育てる、情緒的な、音楽の様な響きがありますね。あらゆる文化において、赤ちゃんに歌を歌ってやらない母親でさえもが、それとはなしに口付さむ音楽や鼻歌が、子どもが育つ上で大切な働きをしています。

 

 

 

 

 

 音楽の力って、素晴らしいですね。

 ことばも音楽

 音楽が最初の言葉

 

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良い教育には、自由が必要

2016-08-04 02:48:46 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
聴く力
   ウソとゴマカシの極北 親愛なる友よ 第二弾  欲がなさそうに見える母親が、子どもに対して強い敵意を抱いている、というのは、驚きですね。 p57下か......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子ども公衆衛生上でも、社会福祉の上でも、学校教育の上でも、最大の問題だ、と考えますが、ニッポンでは、まだ、発達トラウマ障害(DTD)の存在すら認識されていないのが、悲しき現状です。残念です。

 ヴァン・デ・コーク教授は、ボストンのトラウマセンターでの活動の傍ら、全米の特定の地域を2年毎に選んで、その地域の良心的な組織と協同で、発達トラウマ障害(DTD)のセラピーを地道にやっていくそうですね。それが確実な宣伝にもなるようです。 

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.353の、最後のパラグラフから。

 

 

 

 

 

 トラウマを負わされ、虐待され、ネグレクトされた子ども達にとって、一番の希望は、学校で良い教育をされることです。(訳注:良い教育ができる)学校では、その子ども達も、存在を認められ、仲良くしてもらえますし、そこでは、その子ども達も自分で自分をコントロール出来るようになり、「自分はできる」という感じを育てることができます。一番うまくいけば、学校は、訳の分からない世界の中の、安心できる島、として働きます。(訳注:良い教育を提供できる)学校は、子ども達に、身体と脳がどんなふうに働くのか、自分の気持ちを理解し、対処するためにはどうすればいいのか、を教えてくれますからね。(訳注:良い教育を提供できる)学校は、ご近所や家族が負わされたトラウマの相手をするのに必要な不屈な魂を子どもに吹き込む上で、大事な役割があります。もし親が細々と生計を立てる為に2つの仕事をせざるを得ない場合、あるいは、親が、障害が重かったり、心が折れそうになったり、鬱になったりして、子ども達のニーズに応えることができない場合学校は、子ども達が、自分が人生の主人公であり、心の中には「自分はできる」という自律的な足場があることを教えて貰えるところです

 

 

 

 

 

 残念なことですが、ここでヴァン・デ・コーク教授が述べている学校は、アメリカの自由主義的な学校であって、ニッポンの様に自由を認めない、ファシズムの学校のことではありません。ですから、わざわざ、(訳注:良い教育を提供できる)を付け加えなくてはなりませんでした。残念です。原文にはもちろん、「良い教育を提供できる」の文言はありません。

 教育は、子どものポテンシャルを引き出すことですが、ニッポンの学校でやっていることは、日課とルールを強制して、「あんたたちは、大人がコントロールしなければダメな子ですよ」という感じで、むしろ、子ども達のポテンシャルを叩き潰す方に力を入れていますからね。ですから、子どもは「自分じゃ、出来ない」という感じを押し付けられるのが、ニッポンの学校の平均的な実像です。

 

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