ニッポン人は、ユダヤ・キリスト教文化圏の人と同様、≪いまここ≫を大事にします。
ユダヤ・キリスト教文化圏の人は、「最後の審判」や「自分を大事にするみたいに、あなたの隣り人を大事にするはずです」という教えに照らして、≪いまここ≫を点検しながら、≪いまここ≫を、時間軸や対人関係などの中で位置づけながら、生きることになります。ですから、いまここを、創造的に、積極的に生きることができますね。
じゃぁ日本人は?
その辺を教えて下さる、丸山眞男教授の言葉から。『丸山眞男集』第十巻から。
「いま」の肯定が、生の積極的価値の肯定ではなくて、不断の移ろいゆくものとしての現在の肯定である限り、肯定される現在はまさに「無常」であり、逆に無常としての「現在世」は無数の「いま」に細分化されながら享受される。「なりゆく」ものとしての現在は、つぎの「いま」の到来によって刻々過去に繰り入れられるので、「いま」の肯定なり享受なりは、絶えず次の瞬間━━遠い未来ではなく━━を迎え入れようとする一種不安定な心構えとして現れざるをえない。
このように、ニッポン人は、今をイキイキ、ピチピチと生きると言うよりも、不安定な心構えを、何とか、少しでも、落ち着いたものにしようともがきながら生きざるを得ません。時間軸でも、空間軸でも、ニッポン人は、≪いまここ≫を位置付けることはできません。しかし、自分をどこかに位置付けなくてはなりません。何かに託さないと、生きていくことができません。何とか位置づけようとしてニッポン人がメッケタのが、会社や組織などのポジションと、その上下を比較することで「上」になることなんですね。
ですから、いくつになっても、「上」に拘る幼稚な動機付けから自由になれない、ということになりがちです。