尊敦は若いながらも知徳に優れていた
人民から推挙され浦添按司になった
天孫王統が琉球を統治し続けていたが
二十五代目が臣下の利勇によって毒殺された
利勇は自ら中山王と称した
そのため国は乱れ、民は苦しんだ
そこで尊敦は兵を起こし利勇軍を攻め滅ぼした
利勇は妻子と供に自ら命を絶った
1187年尊敦は中山王に即位し瞬天王と称した
琉球を統治し新しく法律を制定し正しい
政治を行ったとされている
瞬天は中山王として1237年まで統治、在位50年
二代目は世子の瞬馬順熈が1238年に即位したが
歴史書には業績について何も記録されていない
在位12年
三代目は世子の義本が、1249年に即位した
しかし統治中国内は天災や飢餓、疫病が相次ぎ
多くの民が苦しむ時代が続いた
義本王は自分には徳が無いからと
五十四歳の時退位し当時摂政だった英祖に禅譲した
瞬天王統は三代(1187~1267年)続いて
73年琉球を統治したと史書に記録されている
琉球の正史以外には瞬天王統に関する資料は全く残っていない
そのため実在しない伝説上の王統と言われている
だが歴史家によっては
全く否定できないと考える歴史家もいる