1609年薩摩藩が沖縄に侵攻し、その支配下に置かれた結果
浄土真宗を禁教とし、他の宗派も制限された
集会を開いての説法・俗家の訪問・修行・留学などの制限
寺院の新築、保修などの自由が制限された
また僧侶の活動も著しく制限された
薩摩藩の侵攻後、琉球国の財政は破綻した状態だった
それまでの沖縄仏教界は官寺であり官僧であった
寺院毎に知行高や扶持高が決められ
公費で保障された官寺制度であった
そのため僧侶は布教や教化に対して、熱心ではなかった
一般の信者はなく、檀家もなく、財源は王府に依存していたが
王府は仏教全体、官寺・官僧への支出を制限し
国家仏教でありながら、そのような状況ではなかった
羽地朝秀が、1666年摂政の地位につき政治改革を行う
行政機能強化・財政改革・そして聞得大君を始めとする
神女組織の簡素化・無駄を廃止して改革を行った
これらの政策は仏教も対象になって、知行高を減らされた
1728年祭温が三司官になり、羽地朝秀の政策を継続して
ヒキ制度の解体、トキ・ユタの禁止・祭祀、儀礼の見直し
寺院を王府の管理下に置き、新たに僧侶の身分制度や
装東の規定、知行高も新たに制定を行った
大幅に消滅された、仏教界は財政てきに困窮し
多くの寺院が廃寺となり
沖縄の仏教は加速を増して衰退していった
羽地・祭温の政策は仏教の衰退の一因となったと言われている
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