雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森51 小松左京さん『闇の中の子供』新潮文庫

2010年06月22日 05時35分29秒 | 本と映像の森
本と映像の森51 小松左京さん『闇の中の子供』新潮文庫、1975年発行

 なんせ1975年(昭和50年)、つまり35年前に買った文庫本なので、いま発行されているかどうかは保障できません。
 文庫本は、ほんとに「生もの」で、すぐに品切れ・絶版にされてしまうので。

 小松左京さんは、私の大好きなファンタジー(=SF(サイエンス・フィクション))作家の一人です。
 他の日本人ファンタジー作家としては、たとえば平井和正さん(誤解をしないように、私は「宗教オタク」ではないですからね)、筒井康隆さん、などでしょうか。

 この『闇の中の子供』の最高傑作は、やはり表題作の「闇の中の子供」でしょうね。

 語り手のたぶん小松左京さんの若い頃という設定でしょうか、「売れないSF作家」の上の「玄関のドアが、ほとほととたたかれた。」

 語り手の男性の自宅、妻と2人の小さな子供が眠った時間に玄関をたたく音。語り手が玄関を開けると、雨の中に立っていたのは、江戸時代の紋付きのような衣装を着た小さな男の子。
 その子が「おじさん、助けて下さい。私は殺されます」と言い「おそろしいおとなです」と必死に語り手に訴えるところから、幕が開きます。

 その江戸時代風の、おびえる男の子は、語り手の2人の男の子といっしょに、異次元の奥へ逃げてしまいます。
  
 そこへやってきた語り手の悪友が、隣町でやっている歌舞伎芝居「菅原伝授手習鏡」のことを思い出し、何か関係がありそうだと、その小屋へ向かいます。

 これは悲しい、子殺しの物語です。もちろん、現代の子殺しのように、ノイローゼでとか子育てに悩んでとかではありません。
 
 主人公と悪友がまごれこんだ時空に現れるのは、飢饉による子殺し、中世ドイツのヘンゼルとグレーテル、戦争による子殺し、ナチスドイツやモンゴル軍による、日本の江戸時代の飢饉時代の子殺し…。

 それらの惨劇を背景に、語り手と悪友は、「菅原伝授手習鏡」の謎を解明します。

 現代は、生産力とエネルギーの過剰に悩む時代で、地球温暖化も過剰によるのですが、人類史の大部分は生産力とエネルギーの大幅不足に悩んできました。
 「グリム童話」が、本当は悲惨な話というのも、そういうことかなと思います。

 小説の終わりのシーン、印象的です。
 「 五色の短冊、私が書いた…
  子供たちの歌声は、森のむこうから、まだ聞こえてくる。」

 こういう子どもたちの声に、耳を傾けたいと思います。
 「闇」も。
 そこからすべてが始まるのではないでしょうか。 
 
 「笹の葉さらさら
 軒端に揺れる
 お星様きらきら
 金銀砂子

 五色の短冊
 私が書いた
 お星様きらきら
 空から見てる」

 ほかに、現代の小泉民営化を徹底的に茶化したような「第二日本国誕生」も思考実験をリアルに小説家した傑作です。
 
 蛇足ですが、「七夕(たなばた)」って何?っていう謎もありますね。あと少しで7月七日です。考えていきたいと思います。
 
 もう七夕の星、こと座のヴェガ(織り姫)とわし座のアルタイル(牽牛)が夜には天空に、高く輝いています。
 雲の向こうで。

 

雨宮日記 6月22日(火) ショパンとモーツアルト

2010年06月22日 00時33分57秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月22日(火) ショパンとモーツアルト

 高林のツタヤで「モーツアルト生誕250年記念CD(4枚組)」を借りてきて、たっぷり聞きました。これまで、モーツアルトは、ちゃんとは聴いたことがないので、ああ、モーツアルトもいいなあと思いました。
 雨宮の聴き方は、とにかくひたすらに、解説や評価など関係なく、とにかく自分の耳で聞くこと。

 ピアノ曲で、「あれ?これショパンじゃないの?」という曲がありました。たぶん、モーツアルトファンの方なら、あ、あれかとわかると思うのですが。

 楽器博物館でのショパンのレクチャーコンサートで講師の平野さんが、ショパンはモーツアルトのオペラがあこがれで、オペラを書きたかった、と言うので、ああ、このモーツアルトの曲がショパンの出発点なのかと勝手に納得しました。

 ショパンのピアノ協奏曲がオケによる長い前奏つきなのも、平野さんのお話では、モーツアルトはベートーベン以後のピアノ協奏曲の冒頭をピアノから始める形式には従わずに、モーツアルトのように冒頭をオケの前奏から始める様式に戻ったということで、それも納得しました。

 初めてちゃんと聞いた(たぶん何十年ぶりに)聞いたモーツアルトのピアノソナタの断片の美しいこと…。モーツアルト漬けになろうかな。




哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

2010年06月22日 00時22分03秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習17 「平和とは」戦争のない状態か

 つい数日前、ある会で「平和とは」という話を提起したので、その話を書きます。
 「平和とは」というと、ふつう「戦争のない状態」という定義になると思います。これを「狭い意味での平和」と呼びます。
 この場合、戦争の反対語は平和で、平和の反対語は戦争です。

 これにたいして、「広い意味での平和」概念が提唱されています。
 この場合「平和」というためには、戦争がないだけではなく、人権が保障されていない社会は平和ではない、支配と従属がある社会は平和ではない、ハラスメントやいじめや暴力がある社会は平和ではない…自殺が多い社会は平和ではない。
 さいきん、ガルドゥングさんが提唱し、日本では安斉育郎さんなどが賛同している説です。
 わたしも、「平和」という時には広い意味での平和概念でとらえ、「戦争がない状態」のことを「狭い意味での平和」として考えたいと思います。
 これからの平和を願う運動は、社会のゆがみ・差別・貧困などをリアルにとらえ、人間と人間との関係、団体と団体の関係を正しいものに是正していく課題にも取り組まないと「戦争のない平和」でさえ来ないと思うようになりました。

 たとえば「核兵器は抑止力」としてとらえ「核兵器と生きる平和」を主唱する人々がいますが、このような「戦争はないが核兵器は存在する平和」は、限りなく戦争に傾斜した、いつわりの平和であって、ほんとうの「平和」ではないと思います。