雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

2010年06月23日 05時42分53秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習18 2つの「平和」と2つの「幸福」

 前回「哲学の学習17」で「狭い意味の平和」と「広い意味の平和」を考えましたが、それに関連して、「幸福」について考えます。

 「幸福」論は、たぶんいっぱいあって、まともに読んだことはないのですが、一つは、くらしが豊かで、戦争もなく命が安全であれば「幸せ」であるという、ある意味、物質的な幸福論と、いや「物よりも心だ」、「心の幸せ」さえあれば、物はいらないんだという2つの理論が対立して遊離しているように思います。
 
 私が思うのは、まず基礎(ベース)にあるのは、「いのちとくらし」、つまり一人ひとりの身体と命とくらしという物の一定の安定という「物の幸福」、それが基本ではないでしょうか。
 
 ただし、その「物(身体と命と暮らし)の幸福」は、
 ① 物の最大限の追求が目標ではなくて、その人の最小限の必要の内であること
 ② 「物の幸福」の上に成り立つ「魂と心の幸福」とバランスのとれていること、が必要であるということでしょうか。

 「魂と心の幸福」は、2つの側面があって、一つは、自分の最深の心の奥の魂が自分で決めて生きていること、もう一つは、その魂と心が、他のたくさんの魂との台頭平等の交流・つながりで生きているかどうか、です。
 
 そういう微妙なバランスを崩してしまうと、人間って歪んでしまって、他人を支配しようとしたり、他人や社会や自然を犠牲にしても最大限の自己の追求をしてしまうのではないでしょうか。

 大事なのは「均衡」だと、『ゲド戦記』でも言っていましたね。

 でも『ゲド戦記』では「すべてが変わるのだ」と(オジオンが)言っていますから、どっちなんだ?!ということにもなりますが、ぼくは「両方」だと思います。
 答えになっていませんが、直感では、ということです。

 いまの結論としては、ほんとうの幸福は、他人や、社会的条件に左右されないのではないでしょうか。

 19世紀の科学者にして革命家のカール・マルクスさんは、「超貧乏」でした。なにしろ、貧乏すぎて死んだ息子の棺桶の板を買うお金すらなかったそうです。
 「マルクス・エンゲルス全集」の書簡集を読むと、親友のエンゲルスさんに「金おくれ」の手紙がたくさんあります。
 では、マルクスさんの人生は貧困にまみれて不幸だったのか?
 そんなことは、言えませんよね。
 
 つまり、貧乏(収入)と幸福は比例しません。
 我が家も貧乏ですが、幸福です(というと怒る人がいると思います。いわく「革命的精神を忘れたのか」「革命なしに幸福はない」)。
 
 そういう方には、物の幸福と、心の幸福というバランスをどう取るのか、それが崩れると、どうなるのか、よく考えていただきたいと思います。
 
 物の幸福を否定せずに、心の幸福も尊重していきたいと思います。

 これは理論ではありません。
 いろんな文化・芸術を、みなさん、感じて、自分で考えてください。

 他の「幸福論」をもし読んだら、再論します。