雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月11日(木) 「何ができるか」でなく…

2011年08月12日 06時37分01秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 8月11日(木) 「何ができるか」でなく…

 則子さんは保母なのに、「ピアノはできないし(前は弾いたけど、ずっと弾いてないので)」「車の運転は出来ないし(普通免許は持ってるけどバイクしか数十年間乗ってないし)」「パソコンは出来ないし」と、職場で上司に「非難」されたようです。

 「わたしはピアノも、車の運転も、パソコンもできる」と自慢する個人もいるようです。

 (この書いたことについて、その内容は、すべて雨宮智彦に責任があります)

 でも、問題は,個人個人の限定された能力ではなくて、集団として・組織として・運動として、みんなで、どう能力を発揮するかと言うことだ思うのですが。

 何かの本で読んだ名文句「エジソンは数学者を雇えるが、数学者はエジソンを雇えない」

 「何ができる」ということと「何ができない」ということを比較すれば、すべての個人が「できない」方が多いのはあたりまえです。

 ぼくは車の運転ができますがバイクは運転できません。則子さんは、対人活動や保育はじょうずですが、ぼくは対人活動はにがてです…その他その他。

 最大の問題は「できる」「できない」ではなくて、その「できる」能力を誰のために使うのか、ということだと思います。

 その能力を、自分の幸せのためにだけ使うのではなくて、他人のために使えるかどうかが、その人の人生がプラスかマイナスかを分ける分水嶺のような気がします。

 自分と他人とを、つねに比較する「偏差値人生」は、ものすごくつらい、地獄の針のむしろですよね。

 ボクと則子さんは、いつも2人の能力をどう組み合わせて、他人ために使うか,使えるかを考えてきたような気がします。

 「他人のために使う」という決意だけでは足りないと思います。「他人のために、自分たちの能力を実際に使えるかどうか」をテストして、点検しないといけないと思います。

 

 


日本古代史 「「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」その2

2011年08月12日 06時05分16秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物

日本古代史 「「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」その2  

 8月9日付けの「日本古代史 「君が代」は天皇家を歌った歌でしょうか?」の続きです。

 公正な議論のために、議論の元ネタの本をあげておきます。

 古田武彦さん著『「君が代」は九州王朝の讃歌』<市民の古代 別巻2>、新泉社、1990年7月10日第1刷、126ページ、定価840円+消費税25円

  「君が代は 千代に八千代にさざ(細)れ、石のいわお(巌)となりて 苔のむすまで」
 

 前回は、元歌の『古今集』の関連する歌4首を分析して、この4首が、内陸部での歌ではなく、海に面した海岸での歌であることを示しました。この点は、雨宮の独自説です。以下、紹介するのは古田さんのこの本での「発見」です。

 古田さんは古代史学者ですが、ほかの問題で、福岡付近の現地見学を、福岡付近の地元の人たちと企画します。そのドキュメントが、この本です。

 古田さんは、福岡市の海岸が「千代の松原」と呼ばれていることは承知していましたが、この現地見学で、糸島郡の西のはし、唐津湾に望む神社「桜谷神社」の祭神が、なんと「苔牟須売神(こけむすひめかみ)」ということを発見して,驚嘆します。

 さらに、弥生の「王墓の谷」である三雲遺跡や平原遺跡のある付近に「細石(さざれいし)神社」があります。 

 つまり、福岡市近郊に、「君が代」の歌詞に関連する地名や神社が完璧に存在しているのです。

 こういう事実から、古田さんは「君が代」は明治維新後の近代天皇制が主張しているようなヤマト天皇家の賛美の歌ではなくて、筑紫「倭国」で「わが君」と言われた君主の讃歌であると主張しています。

 この「九州王朝」説、ぼくの言い方では「筑紫「倭国」説」については、古田さんの基本的な著書、「「邪馬台国」はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」の3冊を自分で読んで、自分で正否を判断してください。

 この3冊は、最近、ミネルヴァ書房から復刊されましたので、手に入れやすいです。

 なお、そのさいには、ぜひ、100%肯定とか、100%否定、あるいは感情的好き嫌い判断ではなくて、それぞれの具体的な事例について事実の判断をして欲しいです。

 雨宮は、古田武彦さんの最近の「「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」は偽書ではない」という説には、事実にもとるので、断固、反対しています。

 

 
 


日本古代史 外国史料3 王充(おうじゅう)さん著「論衡(ろんこう」

2011年08月12日 05時30分15秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史 外国史料3 王充(おうじゅう)さん著「論衡(ろんこう」

 「論衡」の著者・王充(おうじゅう)さんは、実は『漢書』の著者の班固(はんこ)さんと親友なのだそうです。

 ネットで調べると、王充さんは、西暦27年生まれ、西暦98年没で、貧乏だったので本が買えず、本屋で立ち読みをして、すべて暗記したのだそうです。

 その『論衡』に、以下の文章があるそうです。

 『論衡』そのものの現代日本語訳を読んだのではありませんので、孫引きであることを付け加えておきます。つまり、どういう文章の中で、どういう文脈で書かれているのかは、まだわかりません。 


 ① 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」
  (異虚篇第十八)

 ② 「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢ず」
  (恢国篇第五十八)

 ③ 「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ず」
  (儒増篇第二十六)

 
 つまり「周の時代の「成王」さんの時に、東の倭人が暢草(ちょうそう)という草をォ献上して、南の越人が白い雉(きじ)を献上しました」ということですね。

 周王朝の成王さんは、周の第2代の天子さまで、西暦紀元前1000年頃の人です。

 紀元前1000年に、日本列島から「倭人」が献上した?というのは、かなり刺激的な説です。

 なお、この『論衡』の「倭人」は、日本列島に移動して落ち着く以前の、中国本土のどこかにいた「倭人」であるという学説もあることを注意する必要があると思います。

 ただし、親友の班固さんが『漢書』で「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という」と書いたことと、対比して考えると、同じ「倭人」という用語を、班固さんと、王充さんが、まったく別の土地の民族として使ったと考えるのはすこし無理がありそうです。

 「暢草(ちょうそう)」「鬯草(ちょうそう)」とは何か、は、いろいろ説があります。

 どうも薬草のようですが、もっと研究します。