森浩一さんの著書『地域学のすすめ』(岩波新書、2002年)の「関東学を提唱する」のなかに、浅草にいた檜前氏のことが書かれています。
「応永年間(1394~1428)の『武蔵国浅草寺縁起』」に「推古天皇の時代に、檜前(ひのくま)浜成(はまなり)、竹成(たけなり)という兄弟がいて、隅田川の河口近くの海で魚を捕っていたときに、網で一体の仏像を引き上げた。それを土師(はじの)真中知(まつち)が調べてみると、観世音菩薩像だと分かったので、簡単な草堂をつくって祀った。その草堂が浅草寺の紀元であるという」。
森浩一さんは檜前氏の2人は必ずしも浅草の住民でなくてもいいとし、『万葉集』の二十巻の「4413」首から「武蔵国那珂郡」「檜前舎人(とねり)石前」という人を紹介している。
この那珂郡は、森浩一さんは、今の埼玉県美里町のあたり、つまり浅草から隅田川水系で80km上流としている。
朝鮮やヤマト・西日本から東日本へ移住するにしても,一カ所への「転居」というより船を使った「地域」内外、あるいは「小地域」内外の交流を考えないといけないということでしょうね。
つまり、海上交通が盛んな時代に,古代三河遠州地域では、今の愛知県東部と静岡県西部とは目と鼻の先で、直前の「三遠式銅鐸」の盛行からからいっても「一つの地域」として考えるべきではないかと思います。
つまり、同じような住民が住んでいて自由に交流していたのではないかと。
なお、ヤマト明日香の「檜前」は、『古事記』の「第28代宣化天皇」が「檜○(「土」偏に「向」)庵入野宮に座し」とあります。『古事記』に「ひのくま」が出てくるのはここだけのようです。
檜前をもうすこし続けます。