古代ブログ 13 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 5 火穴古墳(108の再録)
この火穴古墳に眠っている人は、年に2回、春分と秋分の時期に聖なる山である根本山に夕陽が落ちるのを目のあたりにする、と被葬者を埋葬した人たちは思ってるわけです。
つまり、この人は根本山を聖なる山として信仰する一族の代表ではなかったか。
以下は、再録です。
「遠州の遺跡・寺社・地名 108 西区深萩町の火穴古墳(円墳)
初めて、則子さんと2013年8月に探訪しました。
位置的には地図に出ていますし、わかりやすい場所にあります。
根本山(ねもとやま、標高129.0m)の頂上から真東へ約670mくらい。道路でいうと「深萩北」信号を東北東へ道路が走っていますが、最初に左へ入る道を入って、北西へ。住宅地のなかの緑の一角にあります。
大きな駐車場もありますので、すぐわかります。
かなり古くなってますが、説明看板も立っています。この看板は書き直した方がいいと思いますけど。いったい、何年前の看板?
直径22mの円墳ですが、土はかなりなくなって石室が露出しています。天井石もほとんどありません。つまり、石室がまともに太陽光で観察しやすい、貴重な古墳です。
「火穴」の名前の通り、真っ赤な石で石室がつくられていて、本には「根本山のチャート」で作られていると書かれています。
ほんとうに真っ赤(おおげさかな?実際は、写真の通り、黒ずんだ赤です)です。
浜松市が発行した小冊子『浜松の古墳めぐり』では、「根本山周辺の古墳」「では最大規模」、「整った形態の両袖型の横穴式石室」、「石室の大きさは全長9.3m、玄室長4.7m、幅2.1m、玄室での天井までの高さ2.2mである。6世紀後半の築造と推定される、」と書いてあります。
横穴式古墳の「石室」は奥の「玄室」と前の「羨道」からなります。つまり、火穴古墳の場合は、全長9.3mですから、奥の玄室が4.7mなので、前の羨道は9.3-4.7=4.6。
つまり、玄室と羨道が同じくらいの長さになります。
この玄室と羨道の長さの比率は,なにか、時代的に変動し,意味があるんでしょうか?まったくのアマチュア考古学者のぼくは、これから調べてみます。
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『浜松の古墳めぐり』では、この「根本山古墳群」は、もともと200~300の古墳があったが、今残っているのは「65基程度」と書いてあります。
「え、そんなに残っているの?!」とびっくりですね。
少しでも見れたら、ここでレポートしていきます。
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補足。火穴古墳の横穴式石室は、完全に南向きです。というより、これを祭る人から見ると「北向き」です。
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雨宮の「古代における太陽の方位学」でいえば、たぶん「聖なる山」の根本山の真東にあるということは意味があるんでしょうか?
でも、それにしては石室が南北方向では、あまり意味がないのかな?
深萩町のあたりは、ごみ環境ネットでミダックの呉松産廃処分場の調査に何度もきたし、根本山の頂上近くにある第2次大戦中の戦争遺跡「本土決戦のための監視穴」も来ました。
そういう、歴史の重層・ジグザグを通して、現在があるんですね。
古代史だけを考える「古代史マニア」より、もっともっと先へ生きたいと思います。」