雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州古代史ニュース 1 浜松市天竜区・光明山古墳が国史跡に 20191118

2019年11月18日 14時55分56秒 | 遠州古代史


遠州古代史ニュース 1 浜松市天竜区・光明山古墳が国史跡に 20191118

 国の文化審議会が浜松市天竜区・光明山古墳を国史跡に指定するように文部大臣に答申しました。

 これで静岡県内の国史跡は48件になります。(『中日新聞 2019年11月16日』(28)面)。


 以下は過去の「雨宮智彦のブログ」光明山古墳関係記事。


 「古代ブログ 11 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 4 天竜区の光明山古墳
2017年10月17日 23時46分23秒 | 遠州古代史

 浜松市の最大規模の前方後円墳は、三方原台地には無く、天竜区の天竜川が平野に出る直前にあります。

 光明山(こうみょうさん)古墳は長さ82メートル、浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。

 巨大なのと、光明寺に隣接しているので草に覆われていて、古墳の輪郭は定かではありません。ただし、冬に行けば、どうでしょうか。ネットで「Google アース」で見ても、あまりよくわかりません。

    ☆

 『静岡県史 通史編 1 原始・古代』に3箇所で叙述があります。。

 219ページ 「すでに松林山古墳、銚子塚古墳など100メートルを超すほどの大型前方後円墳は4世紀代に出現していたが、5世紀になると畿内系の古墳という範疇で理解できるような古墳 ー たとえば天竜市光明山古墳、磐田市堂山古墳などの90~100メートル級の前方後円墳も認められる。同時にこの時期には有数の大型円墳が登場し、首長層の中にも重層的な階層差のあったことがうかがわれる。」
 
 245ページ 「F2【天竜川流域(左岸)ー石田古墳群ーの磐田北大支群】には4世紀の古墳はないが、5世紀の大型前方後円墳(光明山古墳)が含まれている。その占地は、天竜川平野の扇央を押える位置にある。そこで、4世紀代に天竜川の東と西に地域を分けていた勢力圏が5世紀に統一され、群集墳盛行期になるとD・E・Fの3地域に分立したとする構想が成り立つことになる(浜松市博物館『古代の浜松』昭和62年)。」

 404ページ 「この地域に土師部がいたことは疑いない。とくに京見塚【磐田市の円墳、直径47m、高さ8.1m、5世紀後半】の埴輪窯で焼かれた円筒埴輪と同一の製品が、天竜川沿いの光明山古墳(全長88メートルの前方後円墳。天竜市山東)と千人塚古墳(径50メートルの円墳。浜松市初生町)から出土しており、水運を使った搬出・輸送も考えられている(『磐田市史』資料編1)。」

 また、神谷昌志さんの『遠州歴史散歩』静岡新聞社、1989年、の「光明寺と光明山古墳」(p114~115)によれば「昭和30年に静岡県の文化財に指定された。この古墳は昭和10年光明寺がこの地に移ってきた時点ではまだその存在が判らなかったが、数年後に埴輪の破片が発見されたことから古墳であることが判り、昭和46年古墳の南側に老人憩いの家を建設するにあたって、隣接地にあった円墳を調査したとき、本格的な測量を実施し・・・・天竜市【現在では浜松市】最大の古墳であることが判った。」(p115)

 以下、過去の再録を3つ「遠州の遺跡・寺社」の「25」「26」「27」まで

「遠州の遺跡・寺社 25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…
2010年08月17日 05時14分57秒 | 遠州古代史

 二俣にN子さんと車で出かけたので、ついでに、以前から行ってみたかった光明山古墳(こうみょうさんこふん)と光明寺を見に行きました。

 土地勘はないので、天竜区役所(建て替え中)から少し東という感覚で、最初入っていった谷間は、現地の山の西側の谷で、間違いでした。

 もう一度、谷間に入った道に戻って目の前に見える山の東側へ回りました。「光明寺」と書いてあったので山裾を巡る道を、車で上へ上りました。

 光明寺へ登る階段を見つけたので、空き地に車を止めて、二人で北へ登ろうとして、南側を見たら、なんとそこに「光明山古墳」の看板が立っていました。
 あ!これだ!
 これが新浜松市内で最大の古墳なんですね。
 
 古墳らしく整備されているのではないので、看板がなければ、樹木のおいしげる、たんなる山です。
 たしかに、周りの谷を見下ろす尾根の頂点にあるので、きちんと整備して古墳の前方部に立てるようにしてもらえば、この位置の重要性が感覚出来ると思います。

 南北の方向の前方後円墳で、長さ82メートルは浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。
 
 なんで、平野に出たもっと南ではなくて、天竜川が平野に出る直前の山の上に、浜松市内最大の前方後円墳があるのかという問題です。

 やはり、これは、長野県に分岐した出雲勢力が天竜川を南下したことからくるのではないでしょうか。
 つまり、南から海から来た古墳ではなく、北側から天竜川を南へ下ってきた古墳です。

 浜松市の解説では、古墳時代中期の、5世紀後半の古墳のようです。
 この古墳を築いた二俣の古代豪族と、もっと南の天竜川に住み着いた豪族との関係を知りたいなと思います。

 ちょうど、ほかのご夫婦といっしょになって、そのご夫婦も、いっしょに浜松の古墳を回っているそうで、浜松の古墳談義に花が咲きました。
 蛭子森古墳や内野古墳群は行ったそうですので、ぼくのおすすめは「入野古墳は、頂上から下の平野が見れていいですよ」と話しました。
 こういう古代史マニアがもっと増えるといいですね。」


「遠州の遺跡・寺社26 天竜区の光明寺と光明山古墳
2010年08月20日 05時12分48秒 | 遠州古代史

 「遠州の遺跡・寺社25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…」で書いた光明山古墳のすぐ北側の階段を上っていくと、光明寺の境内です。

 目の前に、大きな「大黒堂」があって、まさしく金色のお顔の巨大な「大黒様」がニコニコして座っていらっしゃいました。
 どうみても、藤子不二雄さん(どっちか忘れました)のマンガの主人公です。いま、あのおじさんの名前が出てきません。年ですねえ。思い出したら、加筆します。

 やはり山伏さんや修験道とも関係する山岳寺院なのでしょうね。
 右に(東に)ある社務所でN子さんが何か買っているので、ぼくも行って、聞いてみました。

 「上の方にあるあの寺院はなんですか?」
 「ああ、あそこが、ここのご本尊さまの摩利支天さまですよ」
 「へえ、でもこの暑さじゃ、登っていくのはきついですね」
 「そうですね、ぜひ涼しい季節においでください」
 「はあい、秋になったらまたきますね」

 その摩利支天さまですが、かなり複雑な性格のようで、調査研究します。

 今日書きたいのは、その光明寺と光明山古墳の関係です。
 つまり、光明寺へ登っていく階段を望む位置に、なぜ光明山古墳があるのでしょうか。しかも、光明山古墳は、南北方向なので、被葬者の豪族の遺体は南北向きに寝かせられたとみるのが妥当な線でしょう。

 光明山古墳に埋葬されている5世紀の天竜の支配者・族長と、光明寺の関係が問題なのですが、古墳とお寺とどっちが先であるにしろ、古墳に埋葬された支配者(男女かは不明)が、死後に神仏に参拝するとすると、ちょうどいい位置に階段があって、ということになります。

 ふつう、考古学者と宗教学者を兼ねる人は、たぶん、いないので、こんな話を書く人も少ないかなと思いますが。
 
 ぼくは、やはり、光明山古墳の被葬者(浜松市内で最大の古墳を築いた本人)が死後も神仏に参拝することを想定して、光明山古墳と光明寺の位置が決まったのだと思います。

 もちろん、光明寺はむかしはもっと奥の「光明山」にあったり、という歴史がありますが、基本線は変わらないと思います。

 もう一つ、同じような実例をあげておくと、東区の羽鳥八幡神社と蛭子森古墳です。
 同じように、南北向きの羽鳥八幡神社の参道を延長すると、道の向かいの蛭子森古墳につきあたります。
 しかも、円墳ですが、遺体の向きは南北向きです。
 
 寺社と古墳の関係で、これほど明確ではないですが、近接して同一地内にあると解釈できるのが、浜北の六所神社と興覚寺後古墳、中区の蜆塚遺跡の蜆塚古墳と山神社です。

 六所神社は南向きで興覚寺後古墳は東西、蜆塚古墳は円墳で山神社は東向きということで、その意味はもうすこし考えます。」


「遠州の遺跡・寺社27 天竜区二俣・光明山古墳の続き
2010年08月23日 04時56分11秒 | 遠州古代史

 『天竜市史 上巻』(天竜市役所編集・発行、1981年)の「原始・古代編」の第2章「古代の天竜市域」の「第1節 光明山古墳」と「第2節 天竜市の古墳群」で、139ページから170ページまで、光明山古墳を始め、天竜市内の47の古墳(うち現存は39基)を解説しています。

 145ページで以下のように推理しています。

 「光明山古墳に葬られている人が、生前どこに住んでいて、どれ位の範囲に勢力を張っていたかよくわからないが、この古墳を作らした次の首長とその取り巻きは、山東一帯、例えば八幡遺跡や上市場遺跡あたりに居を構えていたのではないかと思われる。
 そして、その勢力範囲は、後の古墳群のあり方から見て東は、豊岡村野部あたりまで、西は浜北区根堅から宮口あたりまでと考えられる。
 とすれば、それは天竜川三角州地帯の頂点に位置するわけで、天竜川の水利権を掌中にした一大勢力ではなかったかと考えてみたくなる。」

 生前どこに住んでいたかはともかく、その勢力範囲についての考察は妥当なものではないだろうかと、思います。

 つまり、通常、いまの天竜区と浜北区に分けて、以前で言うと天竜市と浜北市に分けて考えてしまうのっが普通の思考法なのですが、この光明山古墳の主は、天竜区を南へ越えていまの浜北区の範囲まで掌握し、「天竜川の水利権を掌中」のものにしていたというのは妥当でしょう。

 さらに推理するなら、その後、この「水利権」は誰かに奪われたと推理すべきでしょう。
 この点については「遠州の遺跡・寺社」の別項で推理したいと思います。

 そして、光明山古墳付近での古墳造営は断絶したと見て良いのでしょうか、それとも細々と続いていたのでしょうか。」