雨宮智彦哲学経済学メモリー 15 20200306 哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1 20100302
「哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1
2010年03月02日 04時14分02秒 | 人間・生命・宇宙
ある「教科書」(87年度ですから23年前でかなり古いですけど、全面改定したという話も聞かないので、もし、今はかなり違っていたら許してください)に、次のように書かれています。
「世界におけるすべての事物は、質の側面と同時に量の側面をもっており、そして、この質の側面と量の側面には切りはなすことのできない密接な関係があります。」
この叙述は賛成です。
次に「「それはどんなものか」という問いに対応する事物の側面、それが質です。つまり、質とは、ある事物を他の事物から区別する特徴・性質の総体のことをさします。」書いています。これも、まあいいかな。
叙述は、質の具体的例として、「資本主義」と「社会主義」の質の違い、別の例として、液体状態にある「水」と気体状態にある「水蒸気」の違いをあげています。
1987年なので、まだソ連のいつわり「社会主義」崩壊の前で、まだ日本共産党の認識が、ソ連社会主義は社会主義ではなく、歪んだ別の種類の社会である、というところには到達していない段階ですから、仕方ないですね。
では、量とはなんでしょうか。
同書では「量とは、長さ、広さ、重さ、温度、速度、人数など、「どれだけか」という問いに対応する事物の側面、つまりなんらかの単位で測定できる事物の側面のことです。10万人のデモ隊、40度の湯、1日1時間の学習などという時、問題にされているのが量の側面です。」と明確に書かれています。
つまり「量」とは「単位で測定できる事物の側面」だと主張しています。でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみました。
たとえば温度、現代では温度計で、どんな温度でも測ることができますが、それは温度計ができてからの話です。
それまでは「今日は暑いね」「今日は寒いね」という感覚で会話がされています。
「熱い」「冷たい」「暑い」「寒い」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」などのけいようしをすべて「量」であると強弁するなら別だけど、事物の同じ側面を「量」として表現すると同時に「質」として表現することができるのではないでしょうか。
つまり「事物の側面」の中には、同時に「量」であり「質」であるような側面がある。
「事物の側面」の中には、「優しい」「きれい」「美人」のような質的にだけ表現ができて、量的表現ができない側面もあるのかな。
だれか「美人」という質を量に変える「美人指数」を発明できれば、すごいですね。
なんだか、本題から逸れてきたような気もしますが。量と質を考える第1回目とします。」