人間宇宙生命社会 43 個人ひとりひとりで仲閒の範囲は違う 20210722
「仲閒」という言葉・概念がある。
たとえばぼくは20年くらい前、ある平和運動上の上司からある会合の別れ際、「仲閒なら仲良くしてくれよ」と言われたことがある。
すでにぼくはそのころ、「一人ひとりにとって仲閒の範囲は違う」という結論に到達していたので、「同じ平和組織の役員だって、ぼくにとって仲閒とは限らない。平和運動は組織のなかで仲良くするのが目的なんですか」と瞬間的に思ったが、いいかえす時間はなく、けっきょくいいそびれた。
いまでも、いや今こそ、ぼくはそう思っている。
たとえば、ぼくのほんとうの「仲閒」は、たとえばぼくの妻・雨宮則子さんの「仲閒」とは微妙にちがうと思います。
ぼくらはそれでいいのですが、問題は、ふつうの平和活動家が「平和活動家はみんな仲閒」と思っているかもしれないということです。そういう誤った認識を大声で訂正してあげる気は全然ないのですが、ふつうに交流のできる人となら対話してみたい気はあります。
「レッテルを無批判に信じるな」
「平和運動は宗教ではない」
「仲閒」という言葉・概念がある。
たとえばぼくは20年くらい前、ある平和運動上の上司からある会合の別れ際、「仲閒なら仲良くしてくれよ」と言われたことがある。
すでにぼくはそのころ、「一人ひとりにとって仲閒の範囲は違う」という結論に到達していたので、「同じ平和組織の役員だって、ぼくにとって仲閒とは限らない。平和運動は組織のなかで仲良くするのが目的なんですか」と瞬間的に思ったが、いいかえす時間はなく、けっきょくいいそびれた。
いまでも、いや今こそ、ぼくはそう思っている。
たとえば、ぼくのほんとうの「仲閒」は、たとえばぼくの妻・雨宮則子さんの「仲閒」とは微妙にちがうと思います。
ぼくらはそれでいいのですが、問題は、ふつうの平和活動家が「平和活動家はみんな仲閒」と思っているかもしれないということです。そういう誤った認識を大声で訂正してあげる気は全然ないのですが、ふつうに交流のできる人となら対話してみたい気はあります。
「レッテルを無批判に信じるな」
「平和運動は宗教ではない」