雨宮家の歴史 35 雨宮智彦の父の自伝史「『落葉松』 Ⅱ 戦後編1 第4部 Ⅱ-34 結婚」
会社の態勢も整い、作業も順調にはかどり始めたので、私は一週間ほどの休暇を取って帰省した。昭和二十二年四月の桜の咲く頃であった。
鉄道はまだ混乱期で、急行列車は朝と夜の二本しかなく、急行券を手に入れることは難しかったので、鈍行列車を乗り継いで帰った。たしか四回ぐらい乗り換えたと思う。車両の入口は混んで、窓から出入りするような時代であった。
私の帰りを待っていたかのように、父は私を伴って翌朝一番の列車で上京し、父の妹一家の住んでいる茨城県の土浦へ向かった。
駅から歩くと一時間ばかりかかる道で、途中桜川の土堤の桜を眺めながら、持参してきたにぎり飯を二人で土堤に座って食べた。私は、にぎり飯をほうばりながら、小津安二郎の作った、笠置衆と佐野周二の「父ありき」という映画を思い出していた。
父の妹は、先祖が土浦藩士だった安藤家へ嫁し、東京の池袋で印刷屋をやっていたが、空襲で焼け出され、戦時中に建ててあった土浦の家へ移っていた。
安藤家には娘が四人いて長女は嫁いだが、まだ三人残っていた。その次女の光子を私にどうかというのであった。従兄弟同士であり、遺伝関係を心配したが、今になれば心配することもなかった。
家へ入り待っていると、部屋の外で何かもめごとでもあるのか、女同士の話し声が聞こえていたが、あとで聞くと、光子の妹の三女がお茶を持って行こうとしたので、母がたしなめていたのだった。光子はもじもじして入って来られなかったのである。そんな時代もあったんだなあと、今、自宅と介護施設に離ればなれになって、お互いと病身を抱えていることを考えると、懐かしくいとおしさを感じる。
昭和二十三年五月二十日、浜松の八幡神社で、私たちは結婚式を挙げた。出席者は仲人の孝男叔父夫妻(「戦前編 11 孝男叔父」参照)、新郎新婦の両親、私の弟二人(引き揚げた時、雨中を荷物を運んでくれた)、私たち二人の十人、ことさら紹介する必要もなかった。
式といっても簡単なもので、神主の祝詞、三三九度の盃の交換、各自の榊(さかき)のお供えぐらいのものであった。
式のあと歩いて家へ戻り、祖母の得意のてんぷら料理に宴を張った。祖母は光子の花嫁姿を見て「きれいだ、きれいだ」を連発して、涙を拭っていた。祖母にとっては光子も孫になる。光子と光子の両親は、式の前日と当日を鴨江の知人の家に泊った。
式の翌二十一日、復活していた昼の準急列車で光へ出発した。光子の父と孝男叔父夫婦は帰京していたので、私の父と光子の母がホームまで見送りに来た。光子にとっては、箱根越えは、小学校六年生の伊勢参り以来のことである。夜行の旅は眠れなかったであろう。私もうつらうつらしていた。
翌日の昼頃、光へ着いてびっくりした。海どころか、バス停の標識まで見えないひどい霧なのである。瀬戸内は春先から梅雨期にかけて霧が多いが、こんなにひどい霧は私にとっても初めてである。新婚夫婦を迎えるのに大変失礼なと思っていたら、それと察したか、バスの来ないうちにすうっと消えていった。そして初夏の陽のさんさんと降りそそぐ、私の愛する光の町となった。今朝、余程冷えたのであろう。
「白百合寮」へ着いてまたびっくりした。誰もいない無人の館であった。私たちのために、一緒にいた入寮者は野原の社宅(地図・C)へ全員移っていた。野原住宅は国道の郵便局の北側の高台にあり、浜松の山手町のような、光で一番の高級住宅地であった。戦時中は将官級の官舎であった。坂を登ると、工廠と光の海が一望できた。野原住宅には工場長が仮住まいしていたが、一挙に人数が増えたわけである。
庶務係の新美正吉さんも、この野原住宅の一軒に戦時中から住んでいた。彼は戦時中、工廠の総務部の庶務主任だったから、工廠関係のことは熟知していた。かれはソロモン海戦で乗艦を沈められて、漂流中を救助され根拠地の呉に送還された。海軍病院で療養待機中に、光海軍工廠の開設と共に配属されたのである。海軍主計大尉であった。名古屋の出身で、兵隊から叩きあげられたと噂には聞いていたが、本当のところは分からない。しかし気合棒で鍛えられたかのような頑強さを思わせる強靱な身体の持主である。
彼とは、光を去ってからも交際を持ち、今まで四回光に来たが、そのたびに一泊したり食事をともにして、健在さを確認しあっていた。しかし、五年前に九十才を以って他界された。一昨々年、出光した折、ご仏前に拝ませてもらったが、奥さんと年賀状のやりとりは続いている。奥さんは呉の出身である。
( 次回 「Ⅱ-35 中村住宅226号」に続く )