『落葉松』「文芸評論」 ㉑ 「浜松詩歌事始 中編 左千夫・茂吉と城西 5」
前編でちょっと触れた(年代的にはだいぶ先の大正後半のことになるが)子規の「天の川」の句の詳細は次の通りである。これらは『谷島屋タイムス』の記事の要約による。
『谷島屋タイムス』は東京日日新聞浜松通信部長だった法月(のりづき)歌客が店主(斉藤義雄)の要請により創刊号(大正十一年一月)より62号(昭和二年二月)まで、63号(昭和二年六月)より77号(昭和四年一月)までを店員の中谷福男、近藤用一が担当した。このあとしばらく休刊して78号(昭和八年九月)より終刊107号(昭和十三年十一月)までを誠心高等女学校の中村精が編集に携わった(文献④)
アルス社の『子規全集』が刊行され始めたのは子規死去二十四年後の大正十三年六月で、全十五巻が完了したのは大正十五年末であった。その第二巻に載った子規の句
馬通る三方原や時鳥(明治28年)
天の川浜名の橋の十文字(明治29年)
を見出したのは歌客であった。雪膓との対話で、雪膓は「想像の作だろう」と両者で次のような結論を出した。
「加藤雪膓、法月歌客両氏を発起人として弁天島駅前に子規居士の「天の川浜名の橋の十文字」を、三方原追分に「馬通る三方原や時鳥」の句碑を建立することになり、本年(大正14年) 四月一日より次の方法で基金を募集する。
一、碑石 高五尺五寸巾二尺二寸の奥州石、 台石は長約六尺の自然石なり
二、文字 全集の原本「寒山落木」の肉筆を 拡大したものを彫せんとす
三、寄付金 一口五十銭也 一人にて数口以 上応ぜらる
四、略
五、拓本 三口以上応募の方へは碑文の拓本 一葉以上を配送す
六、除幕式及会計報告は第一回を七月五日弁天島に於てし、在京名士一、二名を招して講演及記念運座を催す。以上。」
「大正十四年七月五日午後一時、雪膓氏の式辞及経過報告が終わると同氏令嬢多賀子さんが石碑を覆う白い幕を切って落とし「天の川浜名の橋の十文字」が故人の筆蹟通りの鮮やかさを以てその碑面を表した。当日の盛典に臨んだ高浜虚子氏は、立って祝辞を述べ厳粛のうちに式は終わった。写真撮影後、楽園に俳筵を開き、席作の互選を行ひ、虚子の選句批評があった。夜に入って晩さん会を丸文旅館に開いたが出席者は五十余名に及んだ。
葭簀茶屋に見上げたる蓆かな 虚子
潮なめて干からきに日の大署かな 雪膓
海月とけて烈日の砂うるほへり 雪膓
選者は虚子であったが、雪膓の句は一句も採られなかったので、虚子と雪膓の間で口角泡をとばす論争となったのである」(『谷島屋タイムス』44号=大正十四年八月)。
そして雪膓は虚子に対して次のような痛烈な攻撃を加えた。
「虚子の物した除幕式当日の運座句の杜撰な選歌と自作と而して「ホトトギス」八月号に発表した一年有余年間二百句の平板な近詠ー就年百文の四位は成句があるがーとか甚だ荒蓼たるものの安価なるもの寧ろ低級な自然観賞の程度に彷徨するもなるに考えた。実に一驚を喫せざるを得ない点に於て一層深くその心をもとなき感をひき起こしたのである。(中略)。
唯それ文語体の表面描写法の十有五年ー式没後のーは既にすぎ去って特に写生派の新月並の出現すると共に、一方には主観派の口語俳句が勃然として時代俳客の頭上に将来せんとしている。」(『谷島屋タイムス』45号=大正十四年九月)。
百合山羽公が「県下一の俳人だった筈が、いつの間にかアララギ派の指導者になっていた。」と言ったように、大正年間雪膓は短歌界に没入していたが(後篇にて詳述)、弁天島句会を期に再び俳界に身を転じた。
注①「ザボン」 朱欒、ミカンの一種、樹は三 メートル以上の高さになり大きな実をつける。
注②「つはぶき」 石蕗。キク科の常緑多年生 植物で、クキに似た形の葉は厚く、柄が長い。 秋から冬にかけて花茎を出して黄色の花を戻 状につける。葉柄は食用、又漢方薬用になる。 暖地の海岸寄りに自生するが、観賞用に庭に 植えられる。左千夫が来浜した時はちょうど 秋であり、花が咲いていたのであろう。
注3「かづら」 葛。つる草類のこと
文献① 永塚功著『和歌文学大系 25 左千夫 集』明治書院、平成二十年、p3
文献② 西郷信綱著『斎藤茂吉』朝日新聞社、 二〇〇二年十月三十日、p12、p27
文献③ 『アララギ』二十五周年記念号、昭和 八年一月号
文献④ 『谷島屋百年史』昭和四十七年十一月三日発行、p81
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