本と映像の森 258 キューブリック監督映画『博士の異常な愛情』
たぶん、スタンリー・キューブリック監督の一番有名な映画は、アーサー・クラークさん原作の「2001年雨中の旅」でしょうね。2001年から12年も経ったのに、未だに月面基地もできていないし、民間人が乗船する宇宙旅行機(映画の冒頭で「美しく青きドナウ」のメロデイに乗って宇宙ステーションに接近するあの機体です、それはアフリカの猿人が投げ上げた野生ブタの骨の「化身」です(ごめんなさい!映画を観てない人はなんのことか…)。
「2001年」が完成し、ぼくもわざわざ東京まで見に行ったのは、1968年、ぼくが高校生の時でした。なぜ、その時、見に行ったかと言うと、当時、ぼくは高校の「地学部天文班」で、今、テレビアニメでやっている「宇宙兄弟」のような「天文宇宙少年」だったからです。
自伝はともかく、解釈定かでないというか「誰にもわからない映画」「監督もわかってるのか映画」「映画自体が謎」と言われた「2001年」でした。
それに比較すれば、1963年完成の映画「博士の異常な愛情」は、ものすごくわかりやすいですね。つまり、帝国主義陣営と社会主義陣営の「冷戦」「核兵器冷戦」で、「米戦略空軍核基地」の司令官が狂ったらという想定です。
自分の「過去蓄積」を、すべて調べ直して、ビデオや録音や8割、いや9割くらいは捨てて、残ったなかの1作品(VHSの1本)のビデオテープがこれです。今となってはどこから、録画またはコピーしたか不明。映像はとても鮮明なので、昔むかし、VHSテープからVHSテープへの「コピー」システムを保持していた頃に、誰かから借りてコピーしたのかもしれません。
DVDでも販売されているので、見てない方は、購入推薦します。
「現代の狂気」をリアルに再現していて、非常にコワイ映画です。
核兵器の問題だけはないのですね。2013年のいまも「核平気」な人もたくさんいますけど。たとえば「水道水のフッ素消毒」あるいは「体液」の問題…うわ!すごい下劣。
① とんでもない体制を両側で作っているソ連とアメリカの両側の問題。酔っ払いの「ソ連首相」
② ソ連を前面核攻撃するために部下のB52機に「核攻撃」を司令するアメリカ空軍基地の「反乱」司令官、彼は「アメリカ人の体液を守るため」という
③ 国防省での緊急会議で元ドイツ人の「ストレンジ・ラブ博士」は、全面核戦争から生き残るために深い地下の元炭鉱に「生き残り要員」を選ぼうという。そして。男性1にたいして女性は10だという。
だんだん、こういう「狂った」世界に気分が悪くなってきました。結末は、映画を観てください。
監督は、人類の「終末・狂乱」に絶望して、この映画を作ったのではなくて、人類の、ありえる細い未来を信じて、この映画を作ったと思います。
細い糸のように、未来を信じて、狂った基地司令官のもとにいたイギリス軍将校は、大統領に、B52を呼び戻す暗号を伝えようとします。
基地の公衆電話で必死で大統領に連絡をとろうとするが、小銭が足りない!彼を「主犯」と勘違いして基地から連行しようとする攻撃軍司令に「大統領に連絡できなくて核戦争になったら、おまえの責任だ!」と脅迫して「そのコーラの自動販売機を銃で撃って小銭をくれ!」と。
小銭は販売機から放出されて、電話も大統領に通じて…、すべての核攻撃機が攻撃目標から引き返したと、ホワイトハウスが思った瞬間。ソ連首相から電話が入ります。
「1機が撃墜されていないし、引き返していない。このまま攻撃されたら、ソ連の「みなごろしシステム」が作動して、地球上が致死的な放射能でおおわれる」と。
「人類に未来はあるのか?」が、その深い底で、基調を流れているテーマ音楽です。それは「2001年」でも同じだと思います。
ただ、それは「2001年」に直接、受け継がれるわけではなく、そこに「2001年」が論議を呼んだ、一因があるのではないでしょうか?
あまり、明確ではないですね。たぶん、監督やクラークさんでも明確ではないと思います。今、思いついたので、また項目を改めて考察します。
「絶望がなければ希望もない」あるいは「希望がなければ絶望もない」