新・本と映像の森 300 中村稔『定本・宮沢賢治 増補版』芳賀書店、1966年
A5版、301ページ、定価650円。
宮沢賢治さんはボクの大好きな詩人です。でも宮沢賢治さんを聖人あつかいしてほしくありません。
中村稔さんのこの本は宮沢賢治さんをふつーの文学者、ふつーの科学者として扱ってくれていてボクを安心させる。
そして宮沢賢治さんをリアルにとらえようとしている。たとえば
「つまり1918年盛岡高等農林を卒業してから1933年の死までの約15年間の中、宮沢賢治の伝説化された農村活動はわずか3年にも達していないということができる。」(「Ⅰ 序説」、p18)
「かれは学校卒業後も死に至るまで、ほとんど父母に養われていた。」(「Ⅰ 序説」、p20~21)
もうひとつ
「その頃、ロシアへ行きたいとしばしばいっていること、一部から「赤」になるのではないかとみられたこと・・・・・・ひとつにはよく知られているように宗教に対する熱情的な接近であり、もうひとつは、これまで匿されてきたが、社会主義への接近であった。」(「Ⅱ 家について」、p77)
そして「雨ニモマケズ」について。
「「雨ニモマケズ」は、羅須地人協会からの全面的退却であり、「農民芸術概論」の理想主義の完全な敗北である。そしてこの作品は賢治がふと書き落とした過失のように思われる。」(「Ⅴ 詩について」、p211)
直接、中村稔さんの本を確かめて欲しい。ただし昔の本なので、今、どういう形で読めるかは不明。
ボクは『銀河鉄道の夜』のジョバンニの秘密は、宮沢賢治さんが文学者で科学者であるという二重の矛盾する存在であることに規定されていると思う。
主体とは別であり、科学者として客体である「黒曜石の切符」を持たせられたジョバンニの悲しい運命は別述。
「Google」の検索がうまく働かないので、過去の書いた「雨宮智彦のブログ」が全然ヒットしない。検索にかからないけど、わかるものはできるだけ再録していく。
☆これまでの「雨宮智彦のブログ」叙述から
「新・本と映像の森 295 宮沢賢治「原体剣舞連」(詩集『春と修羅』1924年、より)」は最近でヒットするので略。
「新・本と映像の森 179 NHKFM・ラジオドラマ「カンペネルラ」 2018年9月11日 (火)」
「2018年9月11日 (火)
新・本と映像の森 179 NHKFM・ラジオドラマ「カンペネルラ」
偶然、昨夜NHKFMのクラシックのあと1回目をやっていたので聞いた。おもしろい!ラジオドラマって声と効果音だけで絵が立ち上がってくるのが面白い。
「青春アドベンチャー カムパネルラ(全10回)
思考補助装置としての銀河鉄道、それは変わりゆく永久物語運動体
【NHK FM】2018年9月10日(月)?9月14日(金) 午後9時15分?午後9時30分(1-5回)2018年9月17日(月)?9月21日(金) 午後9時15分?午後9時30分(6-10回)」
主人公の「ぼく」は母の遺骨をもって花巻へ向かう。母の遺言のとおり、花巻の宮沢賢治のゆかりの川に散骨をして帰るはずだった。
ところがタクシーで川に向かった金髪のぼくは遺骨をどこかに置き忘れセーラー服の少女と遭遇し廃線になったはずの花巻電鉄に乗り込む。
乗客に見せてもらった新聞は「9月19日」なのだが、なぜか「1933年9月19日」と書いてある。どうもぼくは過去の花巻に紛れ込んでしまったらしい。
しかも「1933年9月19日」といえば宮沢賢治の亡くなった「1933年9月21日」の2日前。もしかしたら宮沢賢治と話ができるかもしれない。
宮沢家へ行ったぼくは法要をしているのに出くわす。
さっき見たセーラー服の少女が現れ「あなたはジョバンニでしょう」といい「今日は兄の賢治の法要なの」という。
さらに「わたしは妹のとしの娘のさそり」という。としは死んだはずではないか。
2回目移行、どう展開するか!?
ボクも「銀河鉄道の夜」大好き人間なので、お勧めです。
作はSF作家の山田正紀さん。」