雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 6月17日(木)朝 すてきな朝焼け

2010年06月18日 05時01分26秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月17日(木) すてきな朝焼け

 早朝の東の空の、すてきな朝焼けに感動して、デジカメで撮影しました。
 べつに「早起きは…」とか、そういう話ではなく、逆に、フクロウ族で、夜中に仕事をして朝、眠りに入ります。
 
 この時期は、だんだんと朝が早くなっているので、仕事をしている内に明るくなって、明るくなってから家に帰って、寝ます。

 「朝焼け」とか「あかつき」とか、いい言葉ですよね。
 ああ、今日も、青空があって、白い雲が浮かんでいるんだという感じ。
 まだ、自然の「真の言葉」を探り当てたとは思っていませんが。



 

 

雨宮日記 6月15日(火) 対話「ゲド戦記とアースシー世界1」

2010年06月17日 06時00分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月15日(火) 対話「ゲド戦記とアースシー世界1」

 以下、ねたばれがありますので、実際に読んでから、ここを読んでください。

 「N子さん、いま、どこまで読んだ?」
 「第6巻の途中まで、早く読み終わって、ちゃんと仕事を探さないと」

 「第1巻の「ゲド戦記」の結末は、ゲドと、ロークでの同窓生の魔法使い・カラスノエンドウの共同作業だよね」
 「ええ、そうね。カラスノエンドウは、ゲドの苦悩の見届け人だけど。」
 
 「ゲドは、影と対決して、何が変わったんだろうか?」
 「それは、物語では書いてないけど」
 「もし、ゲドが最初のように、影から逃げて逃げるだけだったら、どういう結末になっていたのかな?」
 「それは、結末はないんじゃない?」
 
 第1巻は、自分を壊して、影と合体して新しい自分を創造する、つまり自分を壊すことで自立する話。

 第2巻は、テナーにとって居心地のいい自分の居場所をゲドと協力して壊してしまう話。

 第3巻は、ゲドとアレンが共同して、この世界のほころび、穴をふさぎにいく話。

 うわ、とても書ききれません。次へ続きます。


 

哲学の学習16 相補物・対象性と対話・対位法について

2010年06月17日 05時20分36秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習16 相補物・対象性と対話・対位法について

 久しぶりに「哲学の学習」というタイトルで書きます。前に、今年1月28日付けで「哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一」を書きました。

 そこではこう書きました。

 「同化と異化が「対立物の統一」「矛盾」であるというのは。どうなのでしょうか。生命における物質代謝の両側面である、同化と異化は、なんら対立しているわけではなくて、お互いに相互に支えあっているのではないでしょうか。環境の安定なしには、恐竜類や裸子植物の大繁栄もなかったのではないでしょうか。」

 つまり、同化と異化にしろ、プラスとマイナス、左と右、原子核と電子、男と女、漫才のぼけとつっこみ、すべて、相補性と対称性によって安定し、成り立っています。

 つまり、対立する2つの側面によって、まったく別の物に変化して行くという、「科学的社会主義」の陣営の「弁証法」についての理論は、検討する余地があるのではないでしょうか。
 最低限、事実と道理によって証明されていないことは書かないのが、科学的態度であると考えます。

 同じことを、音楽の場合に考えました。
 たとえば、ピアノの右手と左手の調和と非調和。
 あるいは、ヴァイオリンソナタでの、ヴァイオリニストとピアニスト。
 あるいは、ピアノ協奏曲での、ピアノとオーケストラ。

 音楽では「対位法」というテクニックがあって、「複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法」です。
 
 このことを追求していくと、いろいろおもしろそうですが、今日は深入りせずに、ここまでにします。

 ショパンの「テンポ・ルパート」という指示は、ピアニストの仲道郁代さんの解釈では、左手は、正確に指揮をして、右手は自由に揺らいで、ぶれて、という左手と右手の「自由な対話」を意味しているようです。

 ただし、それも左手の正確なタッチがあってのことで、「のだめカンタービレ」で、のだめの自由奔放な演奏を、千秋の正確なタッチが指揮しているのや、「ピアノの森」の大分コンクールで、一ノ瀬海の自由な演奏を、指揮者のセローが正確に指揮してコントロールしているからでしょうか。

 ぼく・雨宮とN子さんの夫婦漫才コンビの関係でいうと、どっちが自由奔放に「テンポ・ルパート」して、どっちが正確にコントロールしているかは…(これは、いま気がついた書けど、世界を揺るがす大問題なので、しばらく熟考してから「雨宮日記」か「哲学の学習」かに、書きます)。

 夫婦の問題が「哲学の問題」なんて、今まで誰も考えたことがないんでしょうか?もし指摘している方がいたら、教えてください。
 ぼくは、夫婦の問題は、哲学や科学の大問題だと思います。


 
 
 

雨宮日記 6月15日(火) サッカーW杯と衛星ハヤブサに感動

2010年06月16日 05時11分23秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月15日(火) サッカーW杯と衛星ハヤブサに感動

 日本チームがW杯に参加してから、一度も、実況中継で見損なったことはなかったのですが、今回は、どうしようか、見てがっかりするのはいやだなと思いつつ、やっぱり怖い物見たさで見たいと、6月14日(月)夜11時、南アフリカからの実況中継を見てしまいました。

 で、今年、日本チームが、命令する人も、管理する人もいない、なのに、全員が積極的にチームに貢献する、とてもいいチームになっていたことを実感しました。
 むかしの「こうしろ!ああしろ!」という方もいませんでした。
 どなっても、おどかしても、だめですよ。
 (誰のことか、わかるでしょ?)

 同時並行で、日本の小惑星探査機の「帰還」を見守りました。偶然ではないと思いますが、同じようなコンセプトで、全員の意識を集中して、生き延びる可能性を全員で追求するという姿勢・決意が「帰還」と「勝利」を呼び込んだと思います。

遠州の遺跡・寺社14 坂上伝説2 有玉神社内「俊光将軍社」

2010年06月15日 15時51分52秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社14 有玉神社に同居する「俊光将軍社」


「遠州の遺跡・寺社13 坂上伝説1」で書いた「旧俊光将軍社跡」から引っ越した先がここです。
 引っ越したというには、新しい方はでかいです。

 浜松でも有名な「有玉神社」ですが、その境内に「俊項将軍社」が同居していることは、行った人しか知らないと思います。
 同居というわりには、でかくて、境内に2つの同じくらいの大きさの神社があるという感じです。

 どちらも南向きで、俊光将軍社は、有玉神社と並んでその西に建っています。

 俊項将軍社は、地元の伝説では坂の上田村麻呂将軍がここに滞在していたときに、現地の女性と夜を共にして生まれた息子であるとされています。
 その女性が実は天竜川に住む大蛇で、田村麻呂将軍に水を支配する「玉」を渡して姿を消した。
 つまり、その玉が「有玉」の「玉」ということなんでしょうか。
 
 俊項将軍社には、有玉神社にはある狛犬がないのは、どういう意味なのでしょうか。屋根の装飾も違います。

 
 

本と映像の森50 アニメ「のだめカンタービレ1」を観た衝撃

2010年06月15日 05時07分11秒 | 本と映像の森
本と映像の森50 アニメ「のだめカンタービレ1」を観た衝撃

 マンガ原作、テレビアニメ、実写映画版と3種類あるようですが、「のだめカンタービレ」のアニメの第1回、第2回を「つたや」で借りて、初めて観ました。

 主人公(語り手)の男子音大生・千秋と、同じく主人公(だけど語り手ではなく、千秋の客観的な眼で語らえる)女子音大生の「のだめ(野田恵)」の物語です。
 
 おもしろいのは、のだめは、1回聴いただけでメロデイを覚えてしまう天才的な耳をもつピアニストなのに(だから…と言うべきか)、生活や掃除や料理はまったくだめな女性として設定されていることです。

 物語の発端は、才能はあるのに指揮者志望で海外留学したい願望の千秋が、小さい頃の飛行機事故と溺れる事故で海外へ行けず、うじうじしていて、同じ大学の女性にふられるシーンからです。

 やけ酒を飲んで酔っ払った千秋が、マンションの自室の隣の、のだめの部屋のドアの前で眠っていたことから、幕があがります。

 ここまで書いて、あれ?なんか?似てるぞと思いました。
 そうだ。これは、のだめと同じように、一度聴いただけでピアノ演奏で再現できる天才的な耳を持つ少年「一ノ瀬海(かい)」の物語「ピアノの森」と同じだと。

 挫折やトラウマを抱えている登場人物たちなのは、たぶん同じでしょうと思います。
 まだ先を見ていないので、「のだめ」の登場人物には会っていませんが、「ピアノの森」の登場人物は、海の教師になる元ピアニスト阿字野にしろ、海のライバルになる雨宮修平にしろ、海を追いかけるピアノ少女貴子にしろ、自分は腱鞘炎でピアノをあきらめた評論家佐賀にしろ、挫折とトラウマに満ちています。

 つまり、主人公ののだめの設定と、海の設定は、同じですね。
 ただし、味付け(テイスト)は「ピアノの森」が悲劇的な予感に満ちているのにたいして、「のだめカンタービレ」は、最初から、のだめを横から客観的に見て笑い飛ばせる千秋の視点で描いていて、喜劇の味付けになっています。

 これが野田恵の視点だけで描いていたら、たんなる芸術天才・生活破綻少女の悲劇になってしまいます。

 「のだめカンタービレ」も「ピアノの森」も、現在進行中です。
 一ノ瀬海は、ショパンコンクールの第2次予選を終え、いま、審査員の熾烈な「落としっこ」が始まっています。
 
 もう一つ、おもしろかったのは、千秋が、のだめや、ヴァイオリン科の青年に「自分の好きなように演奏しろ」と言って、それをサポートして最高の演奏にもっていったことです。

 これも「ピアノの森」の大分でのコンクールで海が選ばれた後の「M響」との演奏会の練習で、指揮者のジャン・ジャック・セローが言ったことです。
 「かい、あとの演奏は、オケに合わせた演奏だね。最初の演奏でやろう」
 
 曲は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。会場を興奮の渦に巻き込みます。

 今日はここまで、ぼくは「のだめ」をアニメか、マンガか、映画で、先へ読みたいと思います。

 のだめは喜劇で、ピアノの森は悲劇と書きましたが、「悲劇的結末」にはしてほしくないけど。

 なお困ってしまうのは、生活破綻少女の「のだめ」の「4日前に髪を洗いましたよ!」といって、千秋が衝撃をうけて、そのあと髪を洗うシーン。
 うわあ、ぼくって「のだめ」だったんだ。

 妻のN子さんに髪を洗ってもらったのが、○日前。
 (感謝すべきか、笑いとばすべきか)
 は、はい、すみません!N子さん、ぼくは「のだめ」です。
 N子さんは、生活破綻中年のぼくを救う千秋です。

雨宮日記 6月14日(月) 浜松にある「丸石神」

2010年06月14日 21時42分40秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月 浜松にある「丸石神」

 6月5日に「日本古代史6 「丸石神」または「竜の卵」について」について書きました。

 浜松市内には、ところどころに、この「丸石神」があります。もちろん、作ったご本人たちは、そのつもりではなく、たんなる石の装飾か何かのつもりでしょうけど。

 これは文化芸術大学の南にある公園の「丸石神」です。
 これ以外にも、浜松科学館の庭とか、アクトのホテル・オークラの前とかにもあります。


日本古代史7 沖縄(琉球)の「宝貝」「子安貝」と中国史・貨幣

2010年06月14日 05時17分07秒 | 日本と世界の古代史・遺跡・遺物
日本古代史7 沖縄(琉球)の「宝貝」「子安貝」と中国史か・貨幣

 中国の漢字では「貨幣」の「か」は「貝」が「化ける」と書きます。つまり「貝」が貨幣の役割を果たしていたわけです。
 これはカール・マルクスさんが『資本』の中で言っているとおり、金属に貨幣が固定する前に、貨幣としていろんな物が通用したことがありました。
 ただし、マルクスさんは、「貝」には言及していませんので、中国の「貨幣」のことまでは知らなかったのだろうと思います。

 「財」も「貝」が左側に「貝」が入っています。
 「貝」が入っている漢字を、以下に並べてみました。
 買う、貸す、貴族、貧しい(貝を分ける)、販売、貯める、貿易、費やす。

 この漢字の「貝」は、中国や日本で一般的な二枚貝のハマグリやアサリのことではなく、沖縄(むかしの言い方で「琉球」)に生息する宝貝=子安貝のこと、というのが一般的な解説です。

 事実として、古代中国の「殷王朝」の時代に、殷王朝が東方の海上と交易がある国家で、日本列島の沖縄と交易があり、沖縄の「宝貝」を、財産・冨のシンボルとして尊重していたということが事実です。

 嘘っぽいと思う人は、古代史の森宏一さんの著書を参照してください。

 ここで問題は、なぜ「宝貝」が、神聖な貨幣として機能するかということです。

 宝貝=子安貝は、日本古代の「竹取物語」にも出てくるような、有名な存在でした。

 なぜかというと、これ以上、書くと著者の評判を落としかねないので、知っていても、指摘しないのでしょうね。
 知らないのなら、なお悪いです。つまり、古代史の中心的問題である、女性と男性の問題です。

 古代は、女性崇拝の時代、「女神の時代」です。
 
 日本で言うと、たとえば卑弥呼さん。
 あるいは、巫女(みこ)の女性である神功皇后さんの神がかりの神託に従わなかった、仲哀天皇さんは、神の祟りで死んでしまいます。
 女性崇拝とは、生殖と出産を担う女性への信仰です。
 女性への信仰は、女性のシンボルとしての乳房や女性器への信仰になっています。

 宝貝=子安貝は、たくさんの種類があります。とくに沖縄でもとれるハチジョウコヤスガイは、膨れた感じが、妊娠した女性のお腹を連想させます。
 
 そして、開口部を下から見上げた感じが、まるで、女性器を見あげた感じに似ています。

 ですから、財産が増えていくシンボル、セックスと妊娠で子どもたちが生まれて一族が繁栄していくシンボルなんですね。

 こういう話は、通常の古代史では(なにに、はばかっているのか)しないんですが、雨宮は平気で、してしまいます。

 沖縄では、女性器のことを「ホウミー」というそうです。「宝の味」です。
 
 いま、目の前に、共産党の日刊新聞「赤旗」の5月24日号があります。ぼくは、30年以上の読者ですが、その1面の「潮流」という欄(『朝日新聞』の「天声人語」と同等のコラムです)に、こうありました。

 「楕円の形も美しい。古くから世界各地で、生命の誕生と再生のしるしとして尊ばれてきたタカラガイ。沖縄の辺野古の海で拾ってきました。タカラガイが打ち寄せられる波打ち際から、ゆたかな生命の営みの繰り広げられる海が広がっています」

 ここまではいいんですけど、その後「▼サクラガイの開口部は堅そうです。〝誰にもこれ以上こじ開けられないよ〟と合図しているようで、「貝になりたい」の言葉が浮かびます。貝は、人がしゃべりたくない時の沈黙のしるしでもあります。」

 「潮流」の筆者の方は「開口部は堅そうです。〝誰にもこれ以上こじ開けられないよ〟と合図しているようで」というのですが、それは戦後日本人の「私は貝になりたい」という名作につられた論点で、本来の貝の意味とは違うと思います。

 貝は、タカラガイは、中国の殷王朝の時代に、沖縄が東方から殷を支えた役割と同等に、中国や東アジアの社会を交易で支えた解放のシンボルだと思います。

 男性と女性の共同のシンボル。
 中国と日本という異民族が交流し、協力したシンボル。
 
 もちろん、5月24日の「潮流」の結論、「辺野古に座り込む人が、タカラガイをてのひらに乗せ語っていました。「ゆたかな沖縄の海を、もう戦争に利用されたくないんです」には心から、同感です。

 

 

 
 
 

雨宮日記 6月13日(日) 雨の散歩と「いきものがかり」発見

2010年06月13日 19時58分28秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月13日(日) 雨の散歩と「いきものがかり」発見

 午後、雨が降り始めていましたが、少し歩こうと思い、1人で馬込川の堤防を北へ、狢橋と上島橋まで歩きました。
 
 ツバメさんたちは雨を喜んで飛び回っています。時々、水面すれすれを飛んで、水面をたたいているような感じなのは、雨で水面へ落ちた虫を食べているのでしょうか。

 上島橋南の西から来る水門の付近の川に亀さんが1匹浮いていました。ひさしぶりの亀さんとの対面でした。

 夜、時には外側から見てみようと、「浜松の生きものブログ」で検索してみたら、2万件以上検索されて、その最初の方に「いきものがかり よっちゃんのつぶやき」とありました。
 「いきものがかり」は3人組のグループでボーカルの吉岡聖恵(よしおか きよえ)さんの歌と声が好きで、お気に入りの歌グループです。
 「よっちゃん」は、ギター&リーダーの水野良樹さんのことです。

 ありゃあ、「いきものがかり」と「浜松」は何の関係だろうと思ってそこに飛んでみました。
 そうしたら、なんと水野良樹さんは、浜松市生まれということがわかりました。
 浜松のどこなんだろう?


雨宮日記 6月12日(土) ホタルのあたり年のようです

2010年06月13日 19時53分16秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月12日(土) ホタルのあたり年のようです

 1週間ぶりに、浜北の里山へ行きました。今日はN子さんは午後、静岡で会議、夜は合唱を聴きにいったので、私と何人かのメンバーでした。

 今夜は、ギャラリーも多くて、子どもたちも多くいて賑やかでした。リピーターのみなさんが多かったのですが、明るいゲンジボタルと小さなヘイケボタルを楽しんでもらえましたね。

 生きものマニアの方も見えて、昆虫など、いろいろ会話がはずみました。
 夜9時11分、解散。
 バッハの無伴奏チェロ組曲を聴きながら、車を走らせました。



本と映像の森49 尾木直樹さん著『「よい子」が人を殺す』

2010年06月12日 05時41分57秒 | 本と映像の森
本と映像の森49 尾木直樹さん著『「よい子」が人を殺す』青灯社、2008年8月30日第1刷、243ページ、定価1800円+消費税

 すごくショックなタイトルですが、私が読んだ限りでは、納得できる事実と論理でしたので、紹介します。

 サブタイトルは「なぜ「家庭内殺人」「無差別殺人」が続発するのか」で、たんなる理論考察ではなく、いろんな家族殺し・無差別殺人の具体的事例研究ですので、説得力があると思います。

 私の理解で勝手に紹介すると、「よい子」は、両親や祖父母など家族の期待に添って「いい子」「いい学校」「いい職業」「いい人生」と、自分の内面や自分の本来の希望を押し殺して、生きています。

 つまり、自分の魂や心を「殺して」、「いい子」として、生きています。
 自分の魂や自分の心を抑圧して(訂正・「抑圧されて」)生きている子は、自分の魂や心を「殺して」生きています。

 自分を殺して生きている子が、他人の魂や心や命を、殺すことに平気になるのは、まったくあたりまえのことではないでしょうか。
 わたしは、そう思います。

 つまり「よい子」「わるい子」「ふつうの子」と分類して、反発する「わるい子」や、そこまで親に従属しきれない「ふつうの子」は、魂が死にきれていないので、他人を殺したりできません。
 
 また時間があれば、具体的事例に則して、「良い子」「悪い子」「普通の子」を考えたいと思いますが、今日は時間がないので、ここまでにします。

 蛇足ですが、ぼく雨宮は、小さい頃から「いい子」ではありませんでした。そういう「影」との長い長い話、自伝と、最愛のN子さんと知り合ってからのことも、ここで、また語りたいですね。聴いてくださる方がいるなら。語る意味があるなら。

 最近、100年前に生きていた石川啄木さんの評論「時代閉塞の現状」や短歌や詩を読み返しています。このことと関連して、また紹介したいと思います。

遠州の遺跡・寺社13 坂上伝説1 「旧俊光将軍社跡」

2010年06月11日 05時26分31秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社13 坂上伝説1 「旧俊光将軍社跡」

 私の住んでいる上島小学校区からすぐ北に行くと、五枚橋という信号があり、そこを左折して西へ、坂を上っていき、道路がカーブして曲がっていく途中を右折して、急坂を上り、北へ右折すると、丘の上のラブホテルの前に出ます。
 
 住所で言うと、「静岡県浜松市東区有玉西町285−2」の「ホテルフェアリー」、日本語では「妖精ホテル」です。

 そのすぐ西側(左側)に「旧俊光将軍社跡」の小さな神社があります。
南向きです。
 これが、「坂上田村麻呂伝説」について、ぼくが疑問を持ち始めた最初の場所です。

 地元の伝説では「俊光(としみつ)」さんは、田村麻呂さんの息子とされていますが、ほんとうか?
 なぜ、ここに、そういう伝説があるのか。
 百済系の、朝鮮半島からの渡来人とかかわる、いろんな伝説と史跡と、その実体を、ぼくなりに、この小さな史跡から出発して、考えていきたいと思います。


 
 

 

遠州古代史の本4 浜松市文化財ブックレット②『姫街道を歩く』

2010年06月10日 05時26分15秒 | 遠州古代史
遠州古代史の本4 浜松市文化財ブックレット②『姫街道を歩く』浜松市、2009年3月27日発行、128ページ、有料

 浜松市への12市町村合併と政令指定都市化は「いいことが何もない」とみんな言いますが、少しはいいことがあるかも。
 優秀な人材が浜松市職員になったのか、あるいは活躍しやすい環境になったのか、「浜松市生活文化部生涯学習課(文化財担当)」が編集・発行したパンフレットは、内容もいいし、センスもいいし、「ほめてあげたい」と思います。
 
 その「浜松市文化財ブックレット②」が『姫街道を歩く』です。浜松市役所や浜松市博物館などでまだ販売していると思いますので、おすすめです。
 浜松市生活文化部生涯学習課の電話は、053-457-2466、です。

 提案ですが、これを書いた職員の方に、現地ガイドになってもらって、「姫街道ウオーキング」をやったらいいと思います。

 第1章は「姫街道の歴史を探る」
 第2章は「姫街道の歴史を歩く」

 私も、これを持って、すこし現地を歩いて、おもしろそうなところは、またアップします。

雨宮日記 6月7日(火) バッハの音楽を聴きながら

2010年06月09日 05時31分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 6月7日(火) バッハの音楽を聴きながら

 6月というのに、雨は降らず空梅雨です。

 昨年からずっと、ショパンのピアノ曲を聴いていたのですが、最近は、もっといろんな音楽を聴きたくなって、モーツアルトやバッハやラフマニノフなど、いろいろ、音源のあるかぎり、全部を聴いています。

 バッハの音楽って、オルガン曲や声楽のカンタータだけではなくて、チェロやチェンバロなど、古典派やロマン派の音楽かと思うくらいのメロディが、聴いているといっぱい出てきます。
 こういうメロディをぜんぶ、体に染みこませてから、死にたいなと思います。

 すごくいい気分で、仕事中、マイカーのスズキ・アルトを運転してバッハを聴いていたら、急に、後ろで、軽自動車のパトカーが赤い警告灯を回して、ぎくっとすると、「止まってください」というので、止まりました。

 なんだ?と身構えていると、「後ろの車体番号の明かりが切れていますよ」というので、ホッとして「すみません、治しますので」と言っても、すぐに無罪放免してくれません。
 
 「免許証を見せてください」「免許証の番号を問い合わせますので(何の問い合わせなんだか)」「ちょっと息を吐いてください」とネチネチされるので、すごいイヤな気分でした。

 助手席の荷物を見て「ああ、新聞屋さんですか」「一般新聞ですか」と言うので「一般新聞ですよ」(特殊な新聞じゃないですよ!)と答えてあげました。

 翌日昼間に、家の近くの自動車屋さんに行って、番号灯を取り替えてもらいました。支払いは380円です。安かったです。
 
 

本と映像の森48 宮崎吾朗さんアニメ『ゲド戦記』

2010年06月08日 05時26分29秒 | 本と映像の森
本と映像の森48 宮崎吾朗さんアニメ『ゲド戦記』

 「ゲド戦記」全6巻を読んでしまったので、仕方なく、ツタヤ高林店で、アニメ映画「ゲド戦記」を借りてきて、初めて見ました。
 
 第1印象は、はて、確かに、原作「ゲド戦記」のアレンやハイタカやテナーやテルーは出てくるが、配役はともかく、これが「アースシー」世界か?と言われると、似て非なる世界ではないでしょうか。

 「アースシー」世界が生き生きと成り立っているのは、ゲドやアレンやテナーが、風が吹き、星がまたたき、花が咲き、草がそよぐ「現実世界」と深く交流していることからです。
 第1巻でも、ゲドは「影」を呼び出してしまった後、深く反省して、自然や動物との交流をすごくしています。

 同時に、第1巻「影とのたたかい」のゲドや、第2巻「壊れた腕輪」でのテナーは、そこで自立して、あるいは他の人間への寄りかかりを拒否して、自分自身を取り戻していることです。

 こう書いてきて、わかりました。
 つまり、肯定すべきものと、否定すべきもの、ですね。

 単純に言うと、自然の肯定と、人工の否定、ということでしょうか。
 生と死の肯定、と言ってもいいでしょうか。

 今日は、まだ思考過程です。
 もっと、もっと、N子さんや旅の仲間たちと論議していきたいと思います。

 アニメ「ゲド戦記」のいちばんの問題は、自分の影とのたたかい(原作第1巻)と、自分の自立(原作第2巻)と、生と死の問題(原作第3巻)、あるいはそのあとの(原作第4巻から6巻)、それらを、ぜんぶまとめて、いっっきょに、解決しようとしたことではないでしょうか。
 
 原作で読む限り、作者は、一歩一歩、のろいくらいの歩みで、階段を上っていくようです。

 それは、ぼく雨宮や、妻のN子さんの人生と同じです。
 すこしづつ、すこしづつ、歩いて行きます。
 でも、30年も立てば、少しは歩いてきたなと、言えるかな。