雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮智彦哲学経済学メモリー 8 20200220 哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力 20100122

2020年02月20日 14時23分03秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 8 20200220 哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力 20100122


哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力
2010年01月22日 04時16分45秒 | 人間・生命・宇宙

 自分の頭で考える「学習」シリーズです。

 他人の頭で考えることのできるヒトは絶対いませんが。他人の頭にたよろうとするヒトはたくさんいます。自分の感覚や判断ではなく、「世間の基準」や「他人の評判」や「他人の規範」にたよろうとすると自分の正直な心・魂・人格を殺すことになります。
 私は、自分の心・魂・人格が死んだゾンビー状態で生きたくはありません。

 通説では、事物の変化・運動・発展の原動力は、事物の内部に存在する矛盾あるいは対立によるということのようです。
 なぜ通説なのか、誰が決めたのかは、ボクに聞かないでください。なぜ通説なのか、誰が決めたのかわからないのが通説であり、常識なのです。

 これは詳しく証明したのではないですけど(時間があれば詳しく証明したいと思いますが)、具体的な1つの変化・運動・発展という「ベクトル」の矢印の長さを規定するのは、「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」ではなく、事物に内在する「エネルギー」ではないでしょうか。

 「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」が規定するのは、「変化・運動・発展」のベクトルの長さではなく、その方向を規定すると思います。

 つまり、原動力であるエネルギーが「変化・運動・発展」を起こすが、その方向性を決めるのは「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」であるということです。

 この世界は、① 物質 ② エネルギー ③ 情報、という3つの要素で成り立っていると思いますが、エネルギーが「変化・運動・発展」のベクトルの長さを規定し。情報がその方向性を規定するということだと思います。

 生物の日々の動的平衡や成長を支えているエネルギーは、ミトコンドリアで生産されるATPですが、そのエネルギーがどう使われて、生物がどのように成長していくかは、生物の細胞の核にある「遺伝情報(DNA)」に規定されています。

 社会の発展のエネルギーは「生産力」ですが、その社会の発展方向は、その社会の成員の情報伝達の総意によって規定されています。

 いまの北朝鮮やスターリンソ連、毛沢東中国、ヒトラー独裁のナチスドイツ、戦前の絶対主義的天皇制日本のような独裁社会では、社会の総意ではなく、どの独裁者によって「変化・運動・発展」ベクトルの方向が規定されていると言えるでしょう。

 もっと感じて、考えて、学習していきます。



過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219

2020年02月19日 09時25分06秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219


「生産当時者」は誰か?  雨宮智彦  20200215

     1

 マルクスは『資本論 第3部』冒頭の「第1編、第1章 費用価格と利潤」の最初、まとめ的文章の末尾で、こう書いています。

 「したがって、われわれがこの第3部で展開するような資本の諸姿容は、それらが社会の表面で、さまざまな資本の相互の行動である競争のなかに、また生産当事者たち自身の日常の意識のなか現われる形態に、一歩一歩、近づく。」
 (引用は新日本出版社上製版、『Ⅲa』p46。原書p。上製版は新書版とほとんど同じ訳だがページ数はすこし違います。)

 この「生産当事者」とは誰のことでしょうか。「生産者」のことで同義語なのでしょうか、それとも違った概念なのでしょうか。

 ボクはこれから『資本論』のなかを「生産当事者」と「生産者」の用語を探索し推理していきたいと思います。これは途中経過報告です。

    2

 ひとつだけ、この「生産当事者」と「生産者」の概念をこれから学習していくうえで事前に触れておかなければならないと思う指摘があります。

 それは不破哲三さんが『『資本論』全三部を読む 第五冊』(新日本出版社、2004年)で強調している点です。223ページから224ページにかけて不破哲三さんは次のように述べています。

「ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

 所論のため不破哲三さんの文章を次のように分けてみます。

「【 1A 】ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。【 1B 】マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 【 2A 】もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、【 2B 】第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 【 3A 】つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、【 3B 】資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、【 3C 】そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

【 1A 】【 2A 】【 3A 】【 3C 】は、マルクスが言っていることで、ボクもそのとおりと思います。しかし【 1B 】【 2B 】【 3B 】は少し違和感がありました。

 不破哲三さんは「マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。」【 1B 】と述べ、その理由として「第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。」【 2B 】と述べています。

 なぜ「生産当事者」を資本家に限定するのでしょうか。「生産当事者」は「資本家と労働者」ではいけないのでしょうか。

 もし不破哲三さんの説が正しいとすると、『資本論 第3部』は「生産当事者」である労働者の意識をまったく無視して論述を進めていることになります。

 それは『資本論』に重大な不備があるというに等しい指摘で、マルクス主義者であるボクとしては、従えない指摘です。

 なにか不破哲三さんは勘違い・思いこみがあるのではないでしょうか。不破哲三さんの文章には証拠が書いていないので研究のしようがありませんが。

     3

 全体として『資本論』には「資本家」についての指摘が大半です。それはあたりまえのことではないでしょうか。資本主義社会の直接の「生産当事者」である「資本家」と「労働者」を比べれば資本家が「主体」であり、労働者は資本家に動かされる「客体」です。

 それだけではなく「資本家」自体が「資本の人格化」であり、資本主義社会での真の主体は「資本」であるということはマルクスが『資本論』でいっているとおりだと思います。

 つまり二重の意味で、主体移転が「労働者 ⇒ 資本家 ⇒ 資本」とおきて労働者と国民は二重の意味で主体でなくなっているのだと思います。

 そういう資本主義社会の基本について触れずに、マルクスが資本家の叙述だけに集中していると理解するから、すこし変なのだと思います。

 「第3部、第1編、第2章 利潤率」で「主体と客体との転倒のいっそうの発展」(上製版Ⅲa p75、原書p55)もそういう意味で理解したい。




 「第2編 利潤の平均利潤への転化、第12章 補遺、第3節」では「この諸関係の担い手たちおよび当事者たちがこの諸関係を明らかにしようと試みる諸観念」(p354、原書p219)とある。

 ここでいう「この諸関係の担い手たちおよび当事者たち」には資本家と労働者が基本的に入るのではないかと思う。

 そnすぐあとで「資本家たち」と書いているのは客体である労働者を具体的に叙述していないのは主体である資本家を描いているだけで、マルクスは資本家だけを研究しているわけではないと思う。

 『資本論』とくに第3部で論述している「意識」は「資本家の意識」だけとは思えない。「労働者の意識」も含めた「全国民的意識」だと思う。

 もっと『資本論』全巻と関連用語を調べていこうと思う。

 未完。2020年2月15日。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 7 20200218 数学の学習1 素数と俳句・短歌 20100106

2020年02月18日 19時39分23秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 7 20200218 数学の学習1 素数と俳句・短歌 20100106


「数学の学習1 素数と俳句・短歌
2010年01月06日 04時16分40秒 | 人間・生命・宇宙

 たぶん、数学関係者にも文学関係者にも「なんじゃこれ」という、奇想天外なタイトルだろうと思います。
 
 ある本で指摘を受けて、調べた結果です。いま、その「ある本」の「何ページ」かを探していますので、見つかり次第、アップします。

 「素数」とは定義で、たとえば「整数p>1が、1とpのみで割り切れれるとき、pを素数という。」
 素数を小さい順に並べると、2,3,5,7,11,13,17,19,23,31、…となります。

 妻のN子さんが最近、俳句をやっているので、考えたことです。

 俳句は、たとえば、一茶の俳句
 「がりがりと(5) 竹かじりきり(7) きりぎりす(5)」
 のように、5-7ー5です。5と7は素数です。5と7と5を足すと17文字で、これも素数です。

 短歌はどうかというと、5-7-5-7ー7 です。

 たとえば、俵万智さんの『サラダ記念日』(河出文庫)で「万智(まち)ちゃんが(5) ほしいと言われ(7) 心だけ(5) ついていきたい(7) 花いちもんめ(7)」(p57)。

 つまり、俳句の構成部分と合計は 5+7+5=17で、すべて素数。
 短歌の構成部分と合計は、5+7+5+7+7=31で、すべて素数。
 これはなぜなんでしょうか。
 
 考えたのは、素数は、2以外は、すべて奇数です(2以外の偶数は素数ではない)ですから、素数であるということより、奇数であるということが俳句・短歌と関係があるのではないかと。

 日本語の特徴なのか、言語学をきちんと勉強していないので。わかりませんが、日本語の名詞に「4文字」言葉が多いことも、「名詞+接尾辞」で「5文字」が必要な理由かもしれません。

 575ではない「古歌」もあるという記憶もあるので、研究していきたいと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 6 20200217 哲学の学習5 要因と属性 20100105

2020年02月17日 21時10分48秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 6 20200217 哲学の学習5 要因と属性 20100105


 補足。問題は要因と属性について、マルクスは『資本論』で、山本さんが言うような使い方をしているかということです。

 以下は、実際に調べて見つかったところ。いまのところ、まだ何とも言えません。

 使ったのは新日本出版社の上製版(5巻本)です。小さい数字はドイツ語版原書ページ。

◇属性 資上Ⅰa p5949・6150・7961
  商品体の諸属性     資上Ⅰa p6150
  労働生産物という属性  資上Ⅰa p6452
◎要因 資上Ⅰa p315199
  人的要因 資上Ⅰa p315199
  対象的要因 資上Ⅰa p315199

 まだ調べます。


「哲学の学習5 要因と属性
2010年01月05日 05時49分52秒 | 人間・生命・宇宙

 これは哲学というより、経済学かも知れませんが、そういう区別は意味がないので、そのままにします。

 『資本論』の「第1巻」の「第1編 商品と貨幣」の「第1章 商品」の第1節は「商品の2つの要因ー使用価値と価値」というタイトルです。
 
 この「要因」とは何でしょうか。
 本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 本文で言う「属性」とはなんでしょうか。

 この問題について、山本広太郎さんの『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)が参考になります。
 山本さんは以下のように述べています。

 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品が、価値と使用価値という要因に分解できるからこそ、その独立した要因の運動で、新たな「貨幣:という現象が膿まれてくるのだと思います。

 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。
 
 物の「属性」となっていれば、それは単純明快で、「青い」とか「ガラス」とか「丸い」とか、そこには二重性はないということでしょうか。

 思いついたのは「組織の民主主義」の場合で、形式的には、その組織が「民主的」と言っていても、一人ひとりの構成員(人間)が、その組織の独立の要因ではなく、組織の属性になっていたら、民主的組織とは言えないな、ということです。」



雨宮日記 2020年2月15日(土) 新型肺炎恐慌が起きるか?

2020年02月16日 20時29分12秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年2月15日(土) 新型肺炎恐慌が起きるか?

 日本でも昨日くらいから水際くいとめの局面は終わって国内感染の段階に入ったらしい。

 学習会でのボクの発言で、中国と日本の深い経済的つなりから言っても、中国発・日本拡大の「新型肺炎恐慌」の可能性がありうると発言しておいた。時期的にもあっている。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 5 20200215 哲学の学習4 「発展」と「展開」 その2 20100104

2020年02月15日 20時04分02秒 | 過去現在のメモノート


雨宮智彦哲学経済学メモリー 5 20200215 哲学の学習4 「発展」と「展開」 その2 20100104

 
「哲学の学習4 「発展」と「展開」その2
2010年01月04日 03時56分51秒 | 人間・生命・宇宙
 1月1日に書いた「哲学の学習3 「発展」と「展開」」の続きです。

 「弁証法」の例証として、植物が種から芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実が成るとという例が書いてあるテキストもあるのですが、これは弁証法の「発展」の例にはなりません。

 なぜなら、たしかに「非可逆的変化」「不可逆的変化」であっても、これは遺伝子(DNA)に事前にプログラミングされた変化であって、「発展」ではなく「展開」と名付けるべきものです。

 「発展」は決して出発点に戻りませんが、生物の遺伝子の「展開」は有性生殖の動物で言うと精子と卵子の会合から始まって幼生からこども・大人になって、必ず精子・卵子に戻ります。戻らなければ、生物は存在できないからです。

 つまり同じ環境の下で、同じような生物がそこに適応して繁栄しているのです。

 マルクスさんの『資本論 第1巻』で言うと、市場経済と商品生産から「貨幣」が出てくるのは、必然的な「展開」の過程です。商品が発生すれば貨幣は出てきます。

 しかし、その後、「貨幣」が出てくれば「資本」が発生するかというと、これは必然的「展開」の過程ではありません。マルクスさんが『資本論』で何回も述べているように、これは「ここがロードス島だ!ここで跳べ!」という、必死の飛躍の過程なのです。跳んでも失敗して「資本」になれない場合が世界史では、多々あったのではないでしょうか。
 
 資本主義社会から社会主義社会に転化する「革命」も、必然的「展開」ではなく必ずしもそうならないという偶然性を含む「発展」ではないかと考えています。

 つまり、資本主義社会(たとえば現代日本)から社会主義社会に「転化」するのは、生物のた根から親への「必然的過程」ではなくて、偶然性や、滅亡したくないならどうしたらいいかという必死の「ここで跳べ!」という思考も、そこに大きく作用するのではないでしょうか。

 生物の進化の場合も同じだと思います。たとえば、中生代の恐竜ワールドから、新生代の哺乳類ワールドへの転換は、偶然の隕石落下を含みながら、必然的な、かならずそうなるというのではなく、偶然性も含んだ、かなり未来決定の幅のあることだろうと思います。

 さらに思考を続けていきます。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 4 20200214 哲学の学習3 「発展」と「展開」 20100101

2020年02月14日 15時57分55秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 4 20200214 哲学の学習3 「発展」と「展開」 20100101


「哲学の学習3 「発展」と「展開」
2010年01月01日 19時36分24秒 | 人間・生命・宇宙

 弁証法哲学では「発展」はきわめて重要なキー概念だと思います。発展とは、たとえば青木書店発行、森宏一さん編『哲学辞典 第4版』(1987年)の「発展}の項目(p376)ではこう書かれています。

 「変化の一形態であるが、この変化の特徴は一義的な方向をもつことである。」とし、「単純なものから複雑なものへ、低い段階から高い段階へと移りいく変化である」としている。これは正しいと思う。

 さらに「発展はたんなる量的変化ではなく、古いものが新しいものへという質的に変わることで生じる変化である」とし、その後に、重要な点を青木版『哲学辞典』は指摘していると思います。

 すなわち「繰りかえされる変化ではなく、新たな段階にのぼりいくのであって、円周をめぐる繰りかえしの変化にくらべると、変化するものがふたたび変化の出発点にもどり、またそこから始まるのではなく、変化の終点は最初の出発点より高いところにある。そしてこの高いところの出発点からつぎの変化の過程をはじめる。そこでたんなる円周上の変化とちがってラセン状に変化する」としている。

 これは正しいのですが、ここでいう「発展」ではないことろの「繰りかえされる変化」「円周をめぐる繰りかえしの変化」という概念が規定されていません。

 そのことを、生物学者の井尻正二さんは『ヘーゲル「大論理学」に学ぶ』}(築地書館、1980年)の「Ⅲ 展開と発展」(P79~p135)で、ヘーゲルが『大論理学』の第3巻「概念論」で展開した「発展」は、生物の系統発生(=進化)を述べたのではなく、生物の個体発生を述べているのであることを指摘しています。

 さらに、井尻さんは、混同されている生物進化における「発展」と、生物の個体発生とを区別し、個体発生のような。低いところから高いところへ、単純なものかた複雑なものへの場合で、かつ循環的で円周的な、出発点に戻る変化を「展開」とすることを提案しています。
 
 不可逆的・非可逆的な変化のなかで、出発点に戻る「展開」と、出発点に戻らない「発展」とを区別することは、きわめて重要な指摘だと思います。このことを考えていきます。

(2010年1月1日投稿)」



雨宮日記 2020年2月13日(木) 暖かい日になりました

2020年02月13日 14時41分26秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年2月13日(木) 暖かい日になりました

 きのうの夜からの雨は朝にはあがって昼頃にはきれいに晴れました。熱いくらいの陽気になって、たぶん花粉がたくさんとんでいると思います。見えませんけど。

 いまの人間社会の脆弱さがこんかいの新型肺炎であらわになっている。いのち最優先でない今の日本も中国も世界も。結論を急ぐことはない。これからいろいろ考えたい。

 

雨宮智彦哲学経済学メモリー 3 20200213 哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」 20091208

2020年02月13日 14時40分42秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 3 20200213 哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」 20091208

 
「哲学の学習2 高村著「ヘーゲル『小論理学』を読む1&2」
2009年12月08日 04時10分49秒 | 人間・生命・宇宙

 ヘーゲルさんと言えば、代表作は『大論理学』と『小論理学』ですが(ぼくが言っているだけかも知れませんが)、これを読むのはきわめて難解です。
 「有」「無」「成」から始まるやつです。

 それで、いい逐条の解説書が欲しいのですが、『小論理学』のいい解説書だと思う本が出版されました。高村是(よし)あつさん著、広島県労働者学習協議会編『ヘーゲル『小論理学』を読む1&2』一粒の麦社、2009年9月10日発行、の2冊です。
 (すみません、著者の「あつ」の漢字が出ません。)

 さっそく買い求めたところ、『小論理学』の本文の前の異常に長い「序文」「序論」「呼び概念」をきちんと開設してくれています。なんと、全4冊を予定しているうち、この2冊が全部、「序文」「序論」「呼び概念」の解説です。

 現にこの部分は、岩波文庫、松村一人さん訳の2冊本『小論理学』の上巻の322ページのうち255ページを占めている部分です。
 ぼくの買ったのは1982年1月第32刷ですから27年前、まだぼくが……才の頃ですね。

 高村さんの解説をたよりに、ぼくも27年間放っておいた小論理学を少し読み進んでみたいと思います。

 一粒の麦社は、電話 082-231-6170 です。

 なお、さっき、岩波書店のホームページにアクセスしてみましたが、文庫も、ヘーゲル全集も、いま品切れ状態です。
 岩波書店に「再版して!」と呼びかけませんか?

 人類の知的「世界遺産」が読めないなんて、おかしいですよ。

 誰か、ヘーゲルさんの全著作を、正確に、わかりやすく日本語に翻訳して、誰でもいつでもアクセスできる「ヘーゲルHP」を作ってくれないかな?」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 2 20200212 哲学の学習1 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定 20091205

2020年02月12日 20時13分04秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 2 20200212 哲学の学習1 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定 20091205

 すみません。実際にボクのブログの過去を見返した人には退屈でしょう。でも、ボクとしては過去の歩いてきた道から出発するしかないので。

 これからしばらくは過去メモリーを探索することが続きます。

「哲学の学習1 ヘーゲル『小論理学』の「哲学」規定
2009年12月05日 04時27分47秒 | 人間・生命・宇宙

 哲学とは何でしょうか、といきなり聞いてみても、誰も答えてくれないので「わからないときはまず辞典」というわが親の教え(親の商売は本屋さん)に従って辞典を見てましょう。

 手元にある青木書店の『哲学辞典 第4版』で「哲学」を引くと、その冒頭に「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学であり、したがって全体としての世界についての見解をしめす世界観である。また論理学および認識論をそのうちにふくんでいる。」(p321)と書いてあります。
 
書いてあるから正しいというわけではありませんが「自然および社会、人間の思考、その知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という規定は、ぼくとしては共感します(それが真実かどうかはまだ未定)。

 なぜかと言うと、結論の押しつけや定義集ではなくて「知識獲得の過程にかんする一般的法則を研究する科学」という角度です。

 ところで、哲学と言えばヘーゲル、ヘーゲルと言えば哲学の、ヘーゲルさんはどう言っているでしょうか。
 岩波文庫版のヘーゲル『小論理学(上)』の「エンチクロベディーへの序論」では、こう述べています。

 「意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用にたよってのみ思惟的な認識および把握に進むものである」(一、p61)
 「哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義されうる。」(二、p62)
 「感情、直感、要求、意志等々の諸規定性は、それらが意識されているかぎり、一般に表象と呼ぶことができる。したがって一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる。」(三、p65)

 つまり、哲学は対象の表象を思惟によって考察し、カテゴリーや概念に変えることだというのです。

 ヘーゲルさんのここでのこういう規定にはぼくは賛同します。ところが、『小論理学』『大論理学』の実際の本文を読むと、最初から「有(存在)」「無」「成」などの概念から概念へ自動進行していくように読めます。
 これはどういうこと?

 こういう疑問から哲学の自主勉強を始めます。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 1 20200211 人間・心・集団1 ヒトは自分の「物語」なしには生きられない 20091128

2020年02月11日 19時00分10秒 | 過去現在のメモノート


雨宮智彦哲学経済学メモリー 1 20200211 人間・心・集団1 ヒトは自分の「物語」なしには生きられない 20091128

 「古代史メモリー」と同じような過去メモリーを記録し直していきます。過去に書いたことは忘れちゃってるので。たとえ稚拙ではあっても、まさしく自分で書いたもの。

 まるっきり無駄ではないと思いますけど。


「人間・心・集団1 ヒトは自分の「物語」なしには生きられない
2009年11月28日 05時21分24秒 | 人間・生命・宇宙

 最近、感じたことを書きます。
 どんなヒトでも、自分の生まれてきて・生きている意味、存在価値、なぜ自分は今を生きているのかという確認無しには生きていけないと思います。
 そういう確認がなければ、ヒトは絶望して「自分には生きていく価値がないんだ」と自死に至るしかないのではないでしょうか。
 そういう自分の生きている意味を「自分の物語」と呼びましょう。
 
 そんな物語などいらない(と思う、たぶん)、トンボや蝶々やアメーバと人間の違いでしょうか。
 もしぼくの大好きなモノサシトンボに自我があったら、ごめんね。

 ヒトは自我を持ってしまい、宗教とか哲学とか世界観とか、自分の存在価値を確認してくれる「物語」が必要なのだ、と思います。
 
 この雨宮智彦のブログ、「哲学・思想・文化・人間」はそういうヒトの側からと、哲学・思想・科学の側からと両方から考えていきたいと思います。

 雨宮智彦は、宗教を否定しません。
 雨宮智彦にとって、宗教は必要ではありませんが。

 それはヒト(「ヒト」とは、人間の1人ひとりの個体を指します)にとって必要な自分を保つための「物語」=安全装置の一つではないでしょうか。

 それが宗教であれ、哲学であれ、科学であれ、世界中のヒトが、お互いを相互尊重しながら、生きていくのが21世紀の世界の姿なのではと思います。]

 

 

雨宮日記 2020年2月10日(月) 中国の事情

2020年02月10日 20時03分26秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 2020年2月10日(月) 中国の事情

 中国と日本で違うのは武漢市は国の下部機関であって自治体ではないということ。公選市長や公選知事はいない。どっちかというと代表するのは共産党武漢市委員会の書記だろう。

 2番目の中国の医療事情の悪さは最近やっと日本のニュースショーでも触れるようになった。そりゃ数日で建設したという病院なるものを見りゃわかるよね。お粗末な野戦病院だろ。

 

雨宮智彦古代史メモリー 22 20200209 日本古代史の学習2 女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所 20100213

2020年02月09日 21時37分17秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 22 20200209 日本古代史の学習2 女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所 20100213


日本古代史の学習2 女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所
2010年02月13日 04時14分27秒 | 古代史を考える

 「魏志倭人伝」による女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所の2回目です。
 
 「倭人伝」では、1で指摘した楽浪郡からの行程記事のほかにも、女王国と伊都国の位置関係を示す文章があります。

 1つ目は以下の文章です。

 「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余のボウ国は遠絶にして得て詳かにすべからず。」(岩波文庫版、p41から42)
 つまり、女王国(邪馬壱国)から北にある対馬や壱岐や末ロや伊都は、その戸数・道里のデータはは得ることができて略載したが、それ以外の「遠絶」の遠い国はデータが得られなかったというのです。
 「倭人伝」によれば「正始元年(西暦240年)」に魏の使者が「証書・印綬を奉じて、倭国に」行って「倭王に拝仮し」とあります。(岩波文庫版、p52)
 つまり、魏の使者は、倭国に実際に行って、倭王卑弥呼会っているのです。

 それはそうです。現代の外交でも、アメリカ大統領が日本の首都・東京まで来て、日本の首相には会わずに外務大臣や秘書とだけ会って、なんてことはありえません。
 
 この岩波文庫版のp41から42の叙述の「女王国以北」に、「注8」で次のように奇怪なことが書かれています。
 「本居は以北を以西とし、その前の不弥国よりの方角南をすべて東とする」(p43)
 つまり、江戸時代の学者・本居宣長さんが、北を西に、南を東に、すべて90度ずらした解釈のルーツなわけです。
 この本居さんの解釈は正しいでしょうか。

 倭人伝の後半でこういう原文があります。
 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。またシュジュ(小人)国ありり、その南にあり。人の長、三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。」(p50)

 本居さんの解釈でいくと、上の原文は以下のようになります。
 「女王国の北、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。またシュジュ(小人)国ありり、その東にあり。人の長、三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東北にあり。」

 これでは、まったく意味をなしていません。
 本居さんの修正は、誤っていると思います。」




雨宮日記 2020年2月7日(金) ノドが痛かった

2020年02月07日 22時12分48秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年2月7日(金) ノドが痛かった

 風邪なのか、ノドが痛い。則子さんに「濃厚感染」されたと思う。ほとんど他の人には近づかないです。

 きのうは会議だったがボクは欠席にしてもらった。今日はすこし良くなったが、まだすこし痛い。

 パソコンで「資本論 関連索引」「ヘーゲル 関連索引」づくりを始めている。これが今年の大きな仕事になりそうな気がする。

 

雨宮智彦古代史メモリー 21 20200207 日本古代史の学習1 「魏志倭人伝」の伊都国は女王国の北 20100211

2020年02月07日 21時59分33秒 | 遠州古代史


雨宮智彦古代史メモリー 21 20200207 日本古代史の学習1 「魏志倭人伝」の伊都国は女王国の北 20100211

「日本古代史の学習1 「魏志倭人伝」の伊都国は女王国の北
2010年02月11日 04時13分15秒 | 古代史を考える

 邪馬台国「近畿説(奈良県説)」や箸墓「卑弥呼の墓」説によれば、北九州の伊都国は、女王国(邪馬台国)の東になります。
 その邪馬台国「近畿説(奈良県説)」では、邪馬台国と敵対して戦争をしていた狗奴国は東海地方の愛知県名古屋市付近にあったされています。

 しかし、この説では『三国志』「魏志倭人伝(正確には「魏志」「東夷伝倭人条」)」が書いている方角を無視しています。

 まず「倭人伝」では、こう書かれています。 
 「末蘆(まつろ)国に至る。四千余戸あり・・東南陸行五百里にして伊都国に到る・・千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。東南奴国に至る百里・・二万余戸あり。東行不弥国に至る百里・・南、投馬国に至る水行二十日・・五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」と。

 つまり、伊都国からの道順ですが「順次式」で読むと、伊都国の百里東南に奴国、奴国の百里東に不弥国、不弥国の南に投馬国、投馬国の南に邪馬壱国ということになります。
 「邪馬壱国」というのは「邪馬台国」と解釈されて訳されている『三国志』「魏志・当遺伝・倭人条」の中国語原文です。この訳語問題については、別途考えます。

 別の解釈の「放射式」読み方では、伊都国を基点にして、伊都国の東に不弥国、伊都
国の東南に奴国、伊都国の南に投馬国と邪馬壱国という方角になります。

 いずれにしろ、倭国の首都である「女王国」=「邪馬壱国(邪馬台国)」が北九州の伊都国の南にあるという方向は変わりません。

 どうしても「邪馬台国=近畿説」にしたいなら、「卑弥呼の墓=箸墓」にしたいなら「魏志倭人伝」の原文を改定して、すべて「南」を「東」に替えないといけなくなります。
 それは、論理的にも、感覚的にも、無理に無理を重ねることではないでしょうか。

 この項は『季刊 邪馬台国84号』の編集部論文「卑弥呼の墓=箸墓古墳説について」のp46からp47の指摘によります。
 
 原文は、手に入れやすい岩波文庫の石原道博編訳『中国正史日本伝(1)新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝』によりました。
 2009年第79刷で、定価は500円です。