雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮智彦古代史メモリー 20 20200206 遠州の古墳1 浜北区・稲荷山古墳を浜松市文化財に指定 20100226

2020年02月06日 16時55分36秒 | 遠州古代史
雨宮智彦古代史メモリー 20 20200206 遠州の古墳1 浜北区・稲荷山古墳を浜松市文化財に指定 20100226


「遠州の古墳1 浜北区・稲荷山古墳を浜松市文化財に指定
2010年02月26日 04時28分40秒 | 遠州古代史

 2010年(平成22年)2月17日(水)に市役所で開かれた浜松市文化財保護審議会の第3回会合は、浜北区内野の稲荷山古墳を浜松市文化財に指定することを決めました。

 稲荷山古墳は、元は百基以上あって現在は十数基が確認できる内野古墳群の一員で、直径37m、高さ4.3mの円墳で、5世紀前半に築造されたと推定されています。

 内野古墳群の主な古墳は、稲荷山古墳、その南南東にある山の神古墳(円墳で直径16m、未発掘)さらにその南南東にある、前方後円墳「赤門上古墳」(前方後円墳、全長56.3m、4世紀末と推定)です。

 2008年におこなわれた稲荷山古墳の調査で、それまで直径30mとされていたのが訂正されて、東区有玉西町の千人塚古墳(直径49m)、西区入野町の入野古墳(直径44m)に次ぐことがわかりました。
 また、天竜川西岸で多く見られる「二段築成」の墳丘が確認されました。
 
 2段目の「葺石(ふきいし)」は、関西の大型前方後円墳と同じような工法を使っていることも判明し、浜松市内の古墳では珍しいこともわかりました。

 すみません、稲荷山古墳は、何年か前に、見に行って写真も撮っているのですが、すぐに出てきません。見つかったらアップします。

 浜松市内の古墳の概要は、浜松市が2008年3月に発行したカラーパンフ『浜松市文化財ブックレット1 浜松の古墳めぐり』(A5版、63p)を持って、市内を回るとよくわかります。
 たぶん、今も売っていると思います。浜松市役所の生活文化部生涯学習課(文化財担当)(電話053-457-2466)か蜆塚の浜松市博物館で300円で買うことができます。」



雨宮智彦古代史メモリー 19 20200205 遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう) 20100428

2020年02月05日 19時53分38秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 19 20200205 遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう) 20100428


「遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう)
2010年04月28日 05時28分51秒 | 遠州古代史

 引佐町の冨幕山(とんまくやま)に「新羅堂」というところがあります。
 ネットで検索すると、たとえばこう出てきます。
 
 「新羅堂(しんらどう) 古代寺院遺跡か朝鮮式山城(創筑年代)弘仁11年(820年)か(創筑者)不明 静岡県引佐郡引佐町富幕 (現状)石段 礎石」

 そして別のネット「遠州修験の道を歩く」では「『遠州の霊山と山岳信仰』によれば「富幕山(鳳来山・扇山)西側山中には大福寺の前身である幡教寺が、東側山中には新羅堂がそれぞれ存在する。」という」と書かれています。

 さらに別のネットでも、新羅堂の位置がわからないので教えて、という問いが書かれていました。

 いまや、その位置さえ謎になってるようです。
 古代朝鮮の「新羅」と関係あるのは確かなようなので、調査したいと思います。

 一つ考えられるのは、北九州の山岳信仰では新羅系の渡来信仰が濃厚なことです。
 この浜名湖・湖北地域での山岳信仰が盛んなことからいっても、この山岳信仰が新羅系である可能性は大きいのではないでしょうか。

 まだ現地踏査していませんので、写真はなしです。」


雨宮家ノート 1 おじいちゃんの短歌メモを発見 20200204

2020年02月04日 12時42分53秒 | 青い銀河とオレンジの花
雨宮家ノート 1 おじいちゃんの短歌メモを発見 20200204

 ボクが「おじいちゃん」というのはボクの父親のことではありません。父の父、つまり祖父のことです。

 おじいちゃんは福男という名前で、「とみお」と読みます。福井県福井市で生まれたからでしょう。アララギ派の歌人でしたので、いつかおじいちゃんの短歌を紹介したいと思っています。

 いま父の部屋に介護ベッドを入れるため、父の部屋を則子さんが片付けていて、新聞の切り抜きや雑誌やいらない本を捨てる過程で、いちおうボクも目を通していました。

 新潮社『世界文学全集 39 カミュ 異邦人・ペスト・転落』という汚い本がありました。そういえばカミュってボクの手元にないなあと思ってなにげなしにとっておきました。そう思いつかなければ捨ててしまうところでした。

 数日後、なんの気なしにその本を開けると、本ではなくページが白い「文学全集」の講読予約者を集めるための「見本」本で、しかも前の方23ページにわたって1973年、昭和「四十八年十二月」から「四十九年八月」までおじいちゃんの短歌が書かれています。

 祖父は、昭和49年(1974年)9月18日に86才で亡くなっているので、最終の時期の短歌だと思います。

 読みにくいのだが、解読できたものはまたここで紹介したいです。




雨宮智彦古代史メモリー 18 20200203 遠州の遺跡・寺社 9 天白岩座遺跡幻想 20100423

2020年02月03日 20時23分56秒 | 遠州古代史

雨宮智彦古代史メモリー 18 20200203 遠州の遺跡・寺社 9 天白岩座遺跡幻想 20100423


遠州の遺跡・寺社9 天白岩座遺跡幻想
2010年04月23日 23時19分56秒 | 遠州古代史


 引佐町の「石の聖地」「天白磐座遺跡」に似たものは,実は日本列島内にもう1カ所あります。あると思います。

 それは、北九州の玄界灘にある、宗像大社の辺津宮にあたる「沖ノ島」の中腹にある古代祭祀遺跡です。
 別名「海の正倉院」と呼ばれています。 

 沖ノ島の中腹にある23の巨岩の岩上・岩陰・半岩陰・半露天・露天の遺跡から4世紀の古墳時代から10世紀の平安時代に至る、大量の祭祀異物が出土しています。

 さて問題は、この西日本の沖ノ島遺跡は航海の安全を祈った遺跡とされている点です。遺物の規模はともかく非常に似通った遺跡である東日本の天白磐座遺跡は、在地の「井伊氏」だけによる地元の祭祀であるといえるのでしょうか?

 いずれ報告書はきちんと読み込みたいと思いますが、類似性から行っても、沖ノ島遺跡が朝鮮海峡を渡る航海・敵地へ渡る旅の安全を祈願する遺跡であるなら、浜名湖から都田川・神宮司川とつながっている天白磐座遺跡が、たとえば尾張政権・たとえば大和政権、あるいは西日本との関連でもっと空想するなら筑紫政権のいずれかが「東海」の船旅、たとえば関東への旅を祈っておこなった祭祀の場であるとは言えないでしょうか。
 今のところは1つの可能性、雨宮の幻想ですが。

 沖ノ島遺跡については、正木晃さん著『宗像大社・古代祭祀の原風景』NHKブックス、日本放送出版協会、2008年8月30日第1刷、定価970円+消費税、205ページ、を参照しました。

 ネットで「沖ノ島遺跡」で検索すると「沖ノ島バーチャルミュージアム」や「沖ノ島・祭祀遺跡」などいろいろなサイトで、カラーでいろんな写真が見れます。

 記紀」にはヤマトタケルさんの旅が書かれていますが、あれは明らかに陸上ではなく、船による海上の旅(侵略の?それとも友好を求める旅?)です。
 ヤマトタケルさんは、名前は「ヤマト」と称しているのに、東日本から帰ってきて熱田の妻のところにいついてしまい、ヤマト天皇にまず報告にもいかないのはおかしいですね。
 ヤマトタケルさんの本拠地は熱田で、尾張政権の一員ではないでしょうか。

 偶然でしたが、今年は「井伊共保さん生誕1000年だそうです。もうすこし井伊氏や郷土の古代史を追いたいと思います。」



 < 補足 >

 雨宮智彦古代史メモリー 13 20200126 遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡 20100411

 もはや右手右足マヒでは、あの裏山に登ることはできません。よって文献を調査するだけになりました。

 でも今は文献を読み直す時間がないので、過去の書いたメモリーを出しているだけです。


「遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡
2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。
 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。」






雨宮日記 2020年2月2日(日) 尾林さん講演会に参加

2020年02月02日 19時27分17秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年2月2日(日) 尾林さん講演会に参加

 情報センターホールでの尾林弁護士講演会をビデオ撮影。水道民営化反対の水道ネット主催。非常にいい講演でした。

 ビデオを全体、きちんと創ろうと思う。それだけの価値はあると思う。

 昨日のウイルスについて。ウイルスには「種」なんて無いですね。だからというわけではないが、「進化」「発展」はなくて「変化」だけがある(?)。


雨宮日記 2020年2月1日(土) 「進化(?)」したウイルス

2020年02月01日 11時34分13秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年2月1日(土) 「進化(?)」したウイルス

 武漢の新型コロナ肺炎ウイルスが人間が保菌していても、症状がない場合があると報道された。

 ウイルスの立場からいえば、存在していても人間にとって意識されないのだからウイルスの生存からは都合がいいのではないか。

 人間は困るけど、ウイルスの生存率は高まる?

 この場合、ウイルスは「種として(?)」「進化した(?)」といえるのか?

 ウイルスは種があるのかな。

 いま瀬名秀明さん『インフルエンザ21世紀』(文春新書、2009年、定価1260円)を読み返している。いい本だと思う。

 発症者は10000人に近くなった。


古代ブログ 113 古代史メモ 1 吉備真備が書いた墓石碑が中国で発見 20200201

2020年02月01日 09時40分10秒 | 遠州古代史

古代ブログ 113 古代史メモ 1 吉備真備が書いた墓石碑が中国で発見 20200201

 『中日新聞 2020年1月27日』(2)面も小さな「ニュースで解けた!」に載っていたニュース。

 昨年、中国で見つかった唐の官僚の墓石碑の碑文の最後に「日本国朝臣備書」と書かれていました②。つまり、「朝臣備」は、たぶん当時中国へ遣唐使として留学していた吉備真備(きびのまきび)ではないかとぴうことです。

 他に該当者がいなければ、ほぼそれで決まりでしょう。