長くなったので次回はこの文書のお話をもう少し......
記しておこうかと思います。
全て、徒然なるままに(^^)♪
この「物部文書」から数千年ぶりに一般に公開されたものは、
未だ全体の一部でしかなく。
他の膨大な記述には一体どんなことが書かれているのか?
......も気になります、が、
その公開された一部分は、
前回記した進藤孝一さんの著作に詳しくまとめられています。
中でも、東北における物部氏の起源に関しては
以下のように述べられています......
「——————饒速日命
ソノ大命ノマニマニ 天ノ鳥船二打乗リ
天ツ日ノ御国ヲ久支出テ天降リマシマシテ
四方大空ヲ翔廻リ 国地ヲ尋求テ 言上曰ク、
豊葦原ノ中ツ池に国ハ多ナレ共(中ツ地トハ大地ヲ言フ)
ツマニ処處ハシモ 千樹五百樹繁茂テ 伊賀志美キ国処ナリト
鳥見山ノ山上潮ノ処二天降り玉フ、
此レヨリ国名ヲ繁木カ之本ト号リ、
此ノ山ヲ鳥海山ト号リ—————————」
上記原文をかなーり平たく要約すれば......
物部氏の始祖であるニギハヤヒの神様は、
天津国のあちこちを国創りのために飛び回っていましたが、
ここ、鳥海山にやって来た時は、
その木々や緑の多さにいたく感激し、
「ここは素晴らしい国だ!
こんな国は葦原中つ国にはないぜ!べいべー!
此の国の名前は “繁る木の本の国” って呼ぼうぜい!」
と言ったのだそうです。
そして、その後、現在の唐松神社の地にしばらくの間居住し。
そこを拠点として新たに東北の地を奥深くまで治めていった......
というような事が書かれています。
唐松神社さんが「門外不出の書」として、
千年以上にわたって護り通してきたこの文書を
一部公開に踏み切った理由としては、おそらく、
建国の父スサノオの偉業を引き継ぎ、
拡大させた真の初代大和国王「ニギハヤヒ」の史実が
あまりにも打ち消されてしまっている現日本国の歴史を憂い。
それ故に、東北物部氏の正統性までもが少々疑わしく、
怪しいものともされている風潮があることに
危機感を抱いていたのではないのではかと。
なので、神社の正当なる血筋や歴史をキチンと証明したい......
という、そんな気持ちや意図が
強く込められているのではないかとも思うのです。
その中で、公開部分を東北上陸の記述部分を中心とした
1部分だけに止めたのは、
現在学校で教えられている歴史や天皇家などに
配慮してのことではないか......とも、
僕には感じられます。
ただ、そんな僕にとって一番興味深いことというのは、
ニギハヤヒさんが東北において最初に降り立った地に関する記述であり。
それが
「鳥見山の山上、潮の処」
と書かれていることなのです。
コレには
「ははーーん。。( ̄▼ ̄*)
鳥海山の山頂の潮の処......って......鳥海湖の所やん!
キット!
行っちゃうよろし!」
となってしまうわけなのでございます。
ええ。ええ。
そんなこんなで、鳥海山に関しては、
僕は「鳥海湖」のほとりが大好きで、
山頂と日本海と庄内平野と月山までもが見渡せる、
サイコーに心地良い場所に!
特別の思いと愛着があるのでございます。(^^)
東北の「現日本国としての歴史」というのは、
もしかしたらこの地から始まったのではないか?
と、そんなことも僕は勝手に思っているわけでございます。
あくまで個人的にですが。
ええ。ええ。
そして、そんな鳥海山や物部文書に対する興味の本質や、
その奥深くにある本音部分を言いうのであれば、
上記原文中で気になるところが実はもう少しありまして.......
「豊葦原の中つ国に国は多なれども.......
ここは本とも言えるくらいだ」
という記述部分が気になるのです。
この部分からまた新たに想像できることというのは、
「記紀にもハッキリと記されていない
豊葦原中つ国(とよあしはらなかつくに)とは?
本当はどこのことなんだろう......
この記述を鳥海山麓で記したとしたら、中つ国とは......
関東!?!?!?んん?
縄文時代から弥生時代にかけての関東平野というのは、
沢山の大きな河川が流れ込む、
日本で一番大きく広い湿地帯だったハズで。
その平野が全て葦原......葦の原だったハズ......で。
それは富士山も見える広大な葦原。
位置的には北海道も含めた列島の真ん中でもあるし、
もしかしたら本当は安易に出雲!関西!九州!
なんていうワケではないかもしれないな......」
などという可能性。
そして、以前、
この「日本中央=ひのもとのまなか」という記事で記した
「征夷大将軍 “坂上田村麻呂” は、
東北の奥地で何故?日ノ本の中央と書き記したのか?
日ノ本...... “日本” という名前の大元は、
もしかしたら東北の地にあるのか!?」
という、
東北の秘密に関する部分に触れてくるところがココにもアル!
ということなのです。
そして、
この文書が受け継がれている東北物部氏が護ってきた秋田の唐松神社には、
天日宮(てんにちぐう)というニギハヤヒが祀られている特別な社があって、
「それは確か “あまつひのみや” とも呼ばれていたな......」
と、そんな事実の裏にも何か?
未だ公になっていない、
解き明かせていない、
時々の権力者に隠された古代史の秘密の一部が
含まれているのではないか......
という可能性に心奪われてしまうのでございます。
ニギハヤヒが滞在していたとも伝わる神社ですし。
興味津々なのでございます。
変わり者です。
ポンチキ君です。
ええ。ええ。
さて、
「鳥海山で遊んできまちた!ヾ= ̄∇ ̄)ノ ♪」
というお話からこんなトコロまで来てしまいましたが......
せっかくですから、
マニア向けにもう少しだけ記すと、
ソレは「物部氏」の話となります。
「諏訪徒然」という過去記事でも少しだけ触れていましたが......
物部氏というのは、古代日本......
それは建国真っ最中の日本......
を探っていくと、その最重要地においては、
決まってチラチラと顔を出してくる氏族の名前なのです。
それは出雲においても、
奈良、大和、葛城などの地においても同じです。
物部氏とは一体なんなのでしょう?
「物部=ものべ=もののべ」
モノを延べる、伸ばす、そんな氏族です。
ではその「モノ」とは何か?
勿論、古代から現代に至るまで重要かつ力のある「モノ」とは何か。
「もののけ」の語源とも何か関わりがあるのではないか?
次回は、やっとこさ、そんな物部氏の話になるのでしょうか。
このブログでは3年越し!?となる様な話。
そんなことを次回は少し記してみようかと思います。
......むむっ!?(*゜0゜)ハッ
マ、マニア過ぎるか......な......また。記事さん。
非難ごうごうやな。また。
きっと......((T.T; )(; T.T))おろおろ......
このブログを読んでくれている、
埼玉県の浦和に住まわれている「WAI」さんから頂いた秋田、
唐松神社、天日宮(あまつひのみや)の写真。
掲載の許諾もいただいたので載せちゃいまちた。
ありがとうございます。
WAIさんの住まわれている浦和の「浦」とは本来「海」のことです。
今より温暖な気候であった縄文から弥生初期にかけての海面は
今より12メートルほど高く、
東京23区は勿論、現在のさいたま市の殆どは海の下でした。
千葉と茨城にまたがる「霞ヶ浦」も全く同じです。
「浦」と名の付く様に、
昔は現在の利根川河口流域も含めもっと広大な「内海」でした。
今の湖の姿はその名残であるということも、
地図で見ると一目瞭然ではないでしょうか。
上記もしましたが、日本一大きな関東平野というのは、
利根川や荒川、江戸川に神田川、隅田川に多摩川......
という大きな河川がまとまって注ぎ込んでいるために出来あがった、
堆積土砂でもって造成されて来た平野なのです。
古代、
この関東の地というのは、
見渡す限りの広大な入江と「葦原」だったのです。
グーグルが災害対策用に開発し、
公開している「Flood Maps(フルードマップス)」というツールがあります。
海水面を±◯◯メートルで設定すると、
その状況での海岸線や地形を自在に見ることができます。
それに縄文の昔から記紀神話の時代ぐらいまでの海水面の高さと考えられる
「+10メートル」前後の数字を打ち込んでみると、
やはり現在の東京23区というのは殆ど全てが海の下となります。
興味深いのは、
今より深く内陸に食い込んでいた海の「港」的な場所に
現在の浦和や大宮が位置するということです。
それはちょうど今の横浜や神戸の様な「港」的な場所となる......
ということです。
そして、その港が当時、
国内外の様々な物品や文化の交流拠点となっていたとすれば.......
それは国の重要拠点ともなっていたハズで、
様々な物品や人の検閲的な機能も有していたとも思えます。
そんな古代港の中心をよく見てみると、
現在の「大宮氷川神社」や
「氷川女体神社」「中山神社」などがあります。
大きな内海となる霞ヶ浦においても全く同じです。
その入り江を見下ろす小高い丘の両端には
「鹿島神宮」と「香取神宮」があります。
もし、この港が、
国内外との交易における一大重要拠点の一つとなっていたのならば、
この二つの神社は軍事的にも浦和と並ぶ一大要害......
「要塞」となっていたであろうことも容易に想像がつきます。
更に、もう少し北を見てみると。
今度は茨城の中程、
日立のあたりにも今と大きく違う入り江が浮き出てきます。
その入り江の両端には、
やはり入り江を見下ろす要塞の様にして聳える二つの神社があります。
「大洗磯前神社=おおあらいいそまえじんじゃ」
と阿字ヶ浦(あじがうら)、
「酒列磯前神社=さかつらいそまえじんじゃ」です。
その入り江の奥地、
港となるところは地図には「水戸=みと」と書いてあります。
今は内陸である「水戸」はなぜ?そんな名前かというと、
昔はこの場所が「水の入口=水の戸」であったわけです(^^)
大阪も大きく地形が変わります。
淀川は今より大きく深く内陸に食い込み、
今の大阪市は東京23区同様殆どが海の下です。
大阪において面白いのは、
堺市にほど近い現在の住吉大社を「根元」とした細長い半島が
大阪湾に突き出ていた事がわかる事です。
当時、その半島の先端は
奈良や大和へと入るための最重要の要害地となっていたハズで。
そこには、やはり、こんな地名が残っています。
「船場」「北浜」「本宮」「天神橋」「高麗橋」「難波」......
北浜の北とは?何を基準として「北」の浜なのか。
半島の北の先端部分だったのだ......と、とてもよくわかります。
近年発掘された大宮殿跡「難波宮」も何故ここにあったのか?
も容易に理解できます。
その半島の先端部分にある、
現在は都会のど真ん中に埋もれている
読みづらい名前の「アル神社」とは......
当時どれほど重要な社(やしろ)であったのか......
も想像ができます。
そして、この半島を抑えていた河内の強力な権力者とは......
記紀にも記されている「ナガスネヒコ=長髄彦」です。
ニギハヤヒ軍一番の武将で彼の右腕となっていたような神?
人物?です。
ニギハヤヒは「オオトシ=大歳=大年」と呼ばれていた若き日に、
父神スサノオやイソタケルらの兄弟たちと共に出雲や九州の平定を果たすと、
その後さらに国土を広げるべくこの大阪の地にも上陸。
長髄彦(ナガスネヒコ)と組んで奈良、大和へと入ります。
その動きはさらに加速。東へと進んで行き、三河、名古屋、静岡、富士山麓、関東、
そして日本海側においても本拠地出雲から北陸を周り、新潟、山形......
東北は鳥海山へと海路から降り立ったのかも!?しれません。
でわ!
教科書にある神武東征とは!?
本当は???
......この国の歴史は、
本当に興味がつきませぬのね(^^)かしこ。
記しておこうかと思います。
全て、徒然なるままに(^^)♪
この「物部文書」から数千年ぶりに一般に公開されたものは、
未だ全体の一部でしかなく。
他の膨大な記述には一体どんなことが書かれているのか?
......も気になります、が、
その公開された一部分は、
前回記した進藤孝一さんの著作に詳しくまとめられています。
中でも、東北における物部氏の起源に関しては
以下のように述べられています......
「——————饒速日命
ソノ大命ノマニマニ 天ノ鳥船二打乗リ
天ツ日ノ御国ヲ久支出テ天降リマシマシテ
四方大空ヲ翔廻リ 国地ヲ尋求テ 言上曰ク、
豊葦原ノ中ツ池に国ハ多ナレ共(中ツ地トハ大地ヲ言フ)
ツマニ処處ハシモ 千樹五百樹繁茂テ 伊賀志美キ国処ナリト
鳥見山ノ山上潮ノ処二天降り玉フ、
此レヨリ国名ヲ繁木カ之本ト号リ、
此ノ山ヲ鳥海山ト号リ—————————」
上記原文をかなーり平たく要約すれば......
物部氏の始祖であるニギハヤヒの神様は、
天津国のあちこちを国創りのために飛び回っていましたが、
ここ、鳥海山にやって来た時は、
その木々や緑の多さにいたく感激し、
「ここは素晴らしい国だ!
こんな国は葦原中つ国にはないぜ!べいべー!
此の国の名前は “繁る木の本の国” って呼ぼうぜい!」
と言ったのだそうです。
そして、その後、現在の唐松神社の地にしばらくの間居住し。
そこを拠点として新たに東北の地を奥深くまで治めていった......
というような事が書かれています。
唐松神社さんが「門外不出の書」として、
千年以上にわたって護り通してきたこの文書を
一部公開に踏み切った理由としては、おそらく、
建国の父スサノオの偉業を引き継ぎ、
拡大させた真の初代大和国王「ニギハヤヒ」の史実が
あまりにも打ち消されてしまっている現日本国の歴史を憂い。
それ故に、東北物部氏の正統性までもが少々疑わしく、
怪しいものともされている風潮があることに
危機感を抱いていたのではないのではかと。
なので、神社の正当なる血筋や歴史をキチンと証明したい......
という、そんな気持ちや意図が
強く込められているのではないかとも思うのです。
その中で、公開部分を東北上陸の記述部分を中心とした
1部分だけに止めたのは、
現在学校で教えられている歴史や天皇家などに
配慮してのことではないか......とも、
僕には感じられます。
ただ、そんな僕にとって一番興味深いことというのは、
ニギハヤヒさんが東北において最初に降り立った地に関する記述であり。
それが
「鳥見山の山上、潮の処」
と書かれていることなのです。
コレには
「ははーーん。。( ̄▼ ̄*)
鳥海山の山頂の潮の処......って......鳥海湖の所やん!
キット!
行っちゃうよろし!」
となってしまうわけなのでございます。
ええ。ええ。
そんなこんなで、鳥海山に関しては、
僕は「鳥海湖」のほとりが大好きで、
山頂と日本海と庄内平野と月山までもが見渡せる、
サイコーに心地良い場所に!
特別の思いと愛着があるのでございます。(^^)
東北の「現日本国としての歴史」というのは、
もしかしたらこの地から始まったのではないか?
と、そんなことも僕は勝手に思っているわけでございます。
あくまで個人的にですが。
ええ。ええ。
そして、そんな鳥海山や物部文書に対する興味の本質や、
その奥深くにある本音部分を言いうのであれば、
上記原文中で気になるところが実はもう少しありまして.......
「豊葦原の中つ国に国は多なれども.......
ここは本とも言えるくらいだ」
という記述部分が気になるのです。
この部分からまた新たに想像できることというのは、
「記紀にもハッキリと記されていない
豊葦原中つ国(とよあしはらなかつくに)とは?
本当はどこのことなんだろう......
この記述を鳥海山麓で記したとしたら、中つ国とは......
関東!?!?!?んん?
縄文時代から弥生時代にかけての関東平野というのは、
沢山の大きな河川が流れ込む、
日本で一番大きく広い湿地帯だったハズで。
その平野が全て葦原......葦の原だったハズ......で。
それは富士山も見える広大な葦原。
位置的には北海道も含めた列島の真ん中でもあるし、
もしかしたら本当は安易に出雲!関西!九州!
なんていうワケではないかもしれないな......」
などという可能性。
そして、以前、
この「日本中央=ひのもとのまなか」という記事で記した
「征夷大将軍 “坂上田村麻呂” は、
東北の奥地で何故?日ノ本の中央と書き記したのか?
日ノ本...... “日本” という名前の大元は、
もしかしたら東北の地にあるのか!?」
という、
東北の秘密に関する部分に触れてくるところがココにもアル!
ということなのです。
そして、
この文書が受け継がれている東北物部氏が護ってきた秋田の唐松神社には、
天日宮(てんにちぐう)というニギハヤヒが祀られている特別な社があって、
「それは確か “あまつひのみや” とも呼ばれていたな......」
と、そんな事実の裏にも何か?
未だ公になっていない、
解き明かせていない、
時々の権力者に隠された古代史の秘密の一部が
含まれているのではないか......
という可能性に心奪われてしまうのでございます。
ニギハヤヒが滞在していたとも伝わる神社ですし。
興味津々なのでございます。
変わり者です。
ポンチキ君です。
ええ。ええ。
さて、
「鳥海山で遊んできまちた!ヾ= ̄∇ ̄)ノ ♪」
というお話からこんなトコロまで来てしまいましたが......
せっかくですから、
マニア向けにもう少しだけ記すと、
ソレは「物部氏」の話となります。
「諏訪徒然」という過去記事でも少しだけ触れていましたが......
物部氏というのは、古代日本......
それは建国真っ最中の日本......
を探っていくと、その最重要地においては、
決まってチラチラと顔を出してくる氏族の名前なのです。
それは出雲においても、
奈良、大和、葛城などの地においても同じです。
物部氏とは一体なんなのでしょう?
「物部=ものべ=もののべ」
モノを延べる、伸ばす、そんな氏族です。
ではその「モノ」とは何か?
勿論、古代から現代に至るまで重要かつ力のある「モノ」とは何か。
「もののけ」の語源とも何か関わりがあるのではないか?
次回は、やっとこさ、そんな物部氏の話になるのでしょうか。
このブログでは3年越し!?となる様な話。
そんなことを次回は少し記してみようかと思います。
......むむっ!?(*゜0゜)ハッ
マ、マニア過ぎるか......な......また。記事さん。
非難ごうごうやな。また。
きっと......((T.T; )(; T.T))おろおろ......
このブログを読んでくれている、
埼玉県の浦和に住まわれている「WAI」さんから頂いた秋田、
唐松神社、天日宮(あまつひのみや)の写真。
掲載の許諾もいただいたので載せちゃいまちた。
ありがとうございます。
WAIさんの住まわれている浦和の「浦」とは本来「海」のことです。
今より温暖な気候であった縄文から弥生初期にかけての海面は
今より12メートルほど高く、
東京23区は勿論、現在のさいたま市の殆どは海の下でした。
千葉と茨城にまたがる「霞ヶ浦」も全く同じです。
「浦」と名の付く様に、
昔は現在の利根川河口流域も含めもっと広大な「内海」でした。
今の湖の姿はその名残であるということも、
地図で見ると一目瞭然ではないでしょうか。
上記もしましたが、日本一大きな関東平野というのは、
利根川や荒川、江戸川に神田川、隅田川に多摩川......
という大きな河川がまとまって注ぎ込んでいるために出来あがった、
堆積土砂でもって造成されて来た平野なのです。
古代、
この関東の地というのは、
見渡す限りの広大な入江と「葦原」だったのです。
グーグルが災害対策用に開発し、
公開している「Flood Maps(フルードマップス)」というツールがあります。
海水面を±◯◯メートルで設定すると、
その状況での海岸線や地形を自在に見ることができます。
それに縄文の昔から記紀神話の時代ぐらいまでの海水面の高さと考えられる
「+10メートル」前後の数字を打ち込んでみると、
やはり現在の東京23区というのは殆ど全てが海の下となります。
興味深いのは、
今より深く内陸に食い込んでいた海の「港」的な場所に
現在の浦和や大宮が位置するということです。
それはちょうど今の横浜や神戸の様な「港」的な場所となる......
ということです。
そして、その港が当時、
国内外の様々な物品や文化の交流拠点となっていたとすれば.......
それは国の重要拠点ともなっていたハズで、
様々な物品や人の検閲的な機能も有していたとも思えます。
そんな古代港の中心をよく見てみると、
現在の「大宮氷川神社」や
「氷川女体神社」「中山神社」などがあります。
大きな内海となる霞ヶ浦においても全く同じです。
その入り江を見下ろす小高い丘の両端には
「鹿島神宮」と「香取神宮」があります。
もし、この港が、
国内外との交易における一大重要拠点の一つとなっていたのならば、
この二つの神社は軍事的にも浦和と並ぶ一大要害......
「要塞」となっていたであろうことも容易に想像がつきます。
更に、もう少し北を見てみると。
今度は茨城の中程、
日立のあたりにも今と大きく違う入り江が浮き出てきます。
その入り江の両端には、
やはり入り江を見下ろす要塞の様にして聳える二つの神社があります。
「大洗磯前神社=おおあらいいそまえじんじゃ」
と阿字ヶ浦(あじがうら)、
「酒列磯前神社=さかつらいそまえじんじゃ」です。
その入り江の奥地、
港となるところは地図には「水戸=みと」と書いてあります。
今は内陸である「水戸」はなぜ?そんな名前かというと、
昔はこの場所が「水の入口=水の戸」であったわけです(^^)
大阪も大きく地形が変わります。
淀川は今より大きく深く内陸に食い込み、
今の大阪市は東京23区同様殆どが海の下です。
大阪において面白いのは、
堺市にほど近い現在の住吉大社を「根元」とした細長い半島が
大阪湾に突き出ていた事がわかる事です。
当時、その半島の先端は
奈良や大和へと入るための最重要の要害地となっていたハズで。
そこには、やはり、こんな地名が残っています。
「船場」「北浜」「本宮」「天神橋」「高麗橋」「難波」......
北浜の北とは?何を基準として「北」の浜なのか。
半島の北の先端部分だったのだ......と、とてもよくわかります。
近年発掘された大宮殿跡「難波宮」も何故ここにあったのか?
も容易に理解できます。
その半島の先端部分にある、
現在は都会のど真ん中に埋もれている
読みづらい名前の「アル神社」とは......
当時どれほど重要な社(やしろ)であったのか......
も想像ができます。
そして、この半島を抑えていた河内の強力な権力者とは......
記紀にも記されている「ナガスネヒコ=長髄彦」です。
ニギハヤヒ軍一番の武将で彼の右腕となっていたような神?
人物?です。
ニギハヤヒは「オオトシ=大歳=大年」と呼ばれていた若き日に、
父神スサノオやイソタケルらの兄弟たちと共に出雲や九州の平定を果たすと、
その後さらに国土を広げるべくこの大阪の地にも上陸。
長髄彦(ナガスネヒコ)と組んで奈良、大和へと入ります。
その動きはさらに加速。東へと進んで行き、三河、名古屋、静岡、富士山麓、関東、
そして日本海側においても本拠地出雲から北陸を周り、新潟、山形......
東北は鳥海山へと海路から降り立ったのかも!?しれません。
でわ!
教科書にある神武東征とは!?
本当は???
......この国の歴史は、
本当に興味がつきませぬのね(^^)かしこ。
唐松神社は、とても清々しい気持ちになる素晴らしい神社でした( ´∀`)
ニギハヤヒ様の雰囲気なのでしょうか
東北に行くと、緑や山々が本当に豊かだなぁと思いますよね。
もののけ姫の世界のように、自然の中にいると神様が近くにいるように感じます。
amenouzmetさんのブログを読んでいると、隠されたものがいろいろ見えてきて、魂がしっくりくるなぁーと感じられる発見があるので、とても嬉しいです(^-^)
奥の深いお話しも、amenouzmetさんの楽しい文章も、いつも楽しみにしています♪
出羽三山も「スサノオの子供達の誰かが」開いたのだと思います。
それもニギハヤヒかもしれません。
蜂子皇子を導いたのが八咫烏となっているところも神武東征の時の熊野神話と同じですし。
なので、僕からすると出羽三山が開かれたのは今語られている西暦500年代よりももっともっと...とても古くて、今日記した神話の時代にまで遡れると思います。
蜂子皇子の説話というのは実は江戸時代、出羽三山の中興の祖「天宥」さん辺りから世に出て行きます。
再興させるのに必要な寓話として実際朝廷から権力争いに敗れ逃げ延びてきた西暦550年頃の皇族系の人の話と上手く重ねて創作されたのだと思います。
ですから、仏法、仏閣としての開山の起源なのだとも思われます。
出羽三山に古くから伝わっていた古代の神々の話に上手く仏教を当て込んだのですね。
発音をそのままにして文字や雰囲気だけを変えていく手法は大元の神々に対する彼らの良心や畏れ、敬意だとも思います。その辺は記紀神話も同じですが。。
出羽三山神社の中にある蜂子皇子のお墓が今もって皇室の管理であることは、その起源は蜂子皇子伝説より古い時代からあったことも匂わせますし(^_^)
ということは、お父様もWAIさんも皇室ゆかりの方の血筋かもしれませんね(^_^)
やっぱり、“八王子”でしたか(◎-◎;)
縄文時代に陸地だった浦和の神社を調べてみようっ。から始まり、唐松神社、蜂子皇子などなど。
フッと思い付いたタイミングが、絶妙なタイミングだったりして。スーっと点が線になっていく感じですね。
本当に、日本という国の歴史は、興味深いですね。
うーん。気のきいた言葉が思い付きませんが…(T_T)
とにかく、amenouzmetさん、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます(*^^*)
神様や人や土地のご縁に感謝です。