目前にある自分の生活や、
緊急事態的な自国の状況に対応することだけで精一杯の毎日でして。
なので、他の国のことなどを思い計れるような余裕も全く持てていなく、
少々情けない日々でもあるわけなのですが。
それでも、このところ続いている
「インド」に関係するニュースはとても気になっています。
インド変異株や悲惨な医療崩壊のニュースは勿論ですが、
「インド」というキーワードでググったりしてみると、
とにかく沢山の禍(わざわい)のニュースが出て来てしまいます......
今年の初めに「風和」という二話完結の記事を記していたのですが、
その二話目の最後にこんなことを記していました。
改めてのコピペを載せると......
==================================
最後に少しだけ......
上の幾つかの写真はバリ島におけるヒンドゥー教の総本山
「ブサキ寺院」を訪ねた時のものなのですが、
今年の干支である牛さんを神聖視しているのがヒンドゥー教となります。
中でも、教徒が最も多く、有名な国としては「インド」となるでしょうか。
ヒンドゥー教が牛さんを神聖視している理由としては、
ヒンドゥーにおける最重要神の一柱である
「シヴァ神」さんの乗り物が牛であったり。
人気者の「クリシュナ神」さんが元々牛使いであったり。
古来より農耕における重要な労働力が牛であったり......と、
そんなコトのようなのですが。丑年の今年は、
そんなインドという国はちょっと注目なのかなぁ、なんて。
一般的には、やれアメリカだ、中国だ、という感じだとは思いますが、
僕さんとしては、
ウシ年ということにそんなことを感じミテいたりもします。
==================================
まだ他にも色々と思い、感じることはあるのですが......
僕のような小市民としては、
インドという国家に対しては、もう、
誠実なる「祈り」を捧げることぐらいしか出来ないような無力さで。
でも、少しでも、
自分に出来る様なことがあれば頑張りたいとも思っております。
とにかく、全てが他国ごとではなく。
目前の生活のことも、
この国に関することも、
なんとか乗り切らなければと。
そういえば、
こんなことを記していたら、
巷(ちまた)でよく話されたり、
書かれたりもしている様なことを思い出しましたが......
「祈りと願いはどう違うの?」
みたいな。そんなこと。
既にもう、そんなことはあちこちに記されていたり、
議論されていたりもすると思うのですが......例えば、
「祈りとは、意(い、意思、気持ち)を宣(の)るからだ」
とか、
「生(い、いのち)を乗せ、宣ることだからだ」
とか。
そんな感じで。
なので、ここでは、
超、個人的には、
こんなふうに捉えておこうかと思っているのです。
「祈りとは、
皆で本気で祈ったら本当にそうなるもの」
ンなわけねーだろ!?
そんな話じゃねーだろ。
バカじゃね!?
と。
多くの人はそう思われるかと。
もちろんです。ええ。
ただ「祈り」というものが「願い」と違う、
その唯一点と思われるところは、
「見返りを求めない」
という主体者の精神性にあるのではないかと僕は思うわけなのです。
そもそも「願い」とは「見返り」そのもののことでもありますし。
欲しいもの、
手にしたいものソノモノに対して発生する気持ちで。
となると「祈り」とは「主体者の姿勢そのもの」のことでもあり、
「自分は必ず!こうあります!」
「こうあれば!と思っています!」
という宣言や宣誓に近しいことなのだとも思うのです。
ここから論旨を起こすと、例えば
「皆で平和を祈った」
としたら、
本当に皆が、すべからく、全員、
その祈りの通りに行動したとしたら、
争い事が起こる可能性は「ゼロ」になってしまうわけです。
誰かがそれを破るから、
はみ出すから、
争いが起き、
その波が周囲に拡大もしていくわけで。
お隣さんとのブロック塀問題が国家間戦争へと繋がっていく......
などと言っても間違いのない話ではないかと思うのです。
なので、皆で平和を祈り、
「自分は一切の争いをしませんように。
争いはしないで生きていきます!」
という姿勢を宣誓し、
そんなことを、もし一人残らず貫いたらとしたら、
一人残らず祈ったとしたら......
平和にならないわけはないのです。
皆で真に祈り、行動したとしたら必ずそうなる。
「祈り」とは、そんなことのようなのです。
「こうありたい」と願う、見返りを求めない姿勢。
そして、
こう考えてみると、
平和などということに関しても、本当は、
祈りこそが唯一の方法なのかもしれません。
ちなみに、漢字の意味や成り立ち的な所から考察する
「漢和辞典」的な見地からでも同じ様な論旨となっていて。
「祈り」の「祈」という字は、
元は「示(しめす)」編に「斧(おの)」なのだそうです。
「斧」は釣り針の形の先に「刃」を取り付けた
形象イメージの文字なのだそうですが、
要は、「祈」とは、
作物や山海の幸を神に捧げる「供物台」のことで。
ストレートな表現をとれば「いけにえ」の台。
供物を神に捧げ示しながら感謝、宣誓をする。
そんなことから成立して来た文字なのだそうです。
供物を捧げて神に近づくということで、
後に「近い」という文字との重なりも生まれてきて、
そうして現在の「祈」という文字になったのだそうです。
インドも、
この国も、
自分も、
禍(わざわい)から立ち直れます!
立ち直るのです!
立ち直れますように。。
たちなおってくれよーー。。。
たちなおるぞーーー!
むむ。
祈りがわからなくなった。。( ˙-˙ )きょとん。
緊急事態的な自国の状況に対応することだけで精一杯の毎日でして。
なので、他の国のことなどを思い計れるような余裕も全く持てていなく、
少々情けない日々でもあるわけなのですが。
それでも、このところ続いている
「インド」に関係するニュースはとても気になっています。
インド変異株や悲惨な医療崩壊のニュースは勿論ですが、
「インド」というキーワードでググったりしてみると、
とにかく沢山の禍(わざわい)のニュースが出て来てしまいます......
今年の初めに「風和」という二話完結の記事を記していたのですが、
その二話目の最後にこんなことを記していました。
改めてのコピペを載せると......
==================================
最後に少しだけ......
上の幾つかの写真はバリ島におけるヒンドゥー教の総本山
「ブサキ寺院」を訪ねた時のものなのですが、
今年の干支である牛さんを神聖視しているのがヒンドゥー教となります。
中でも、教徒が最も多く、有名な国としては「インド」となるでしょうか。
ヒンドゥー教が牛さんを神聖視している理由としては、
ヒンドゥーにおける最重要神の一柱である
「シヴァ神」さんの乗り物が牛であったり。
人気者の「クリシュナ神」さんが元々牛使いであったり。
古来より農耕における重要な労働力が牛であったり......と、
そんなコトのようなのですが。丑年の今年は、
そんなインドという国はちょっと注目なのかなぁ、なんて。
一般的には、やれアメリカだ、中国だ、という感じだとは思いますが、
僕さんとしては、
ウシ年ということにそんなことを感じミテいたりもします。
==================================
まだ他にも色々と思い、感じることはあるのですが......
僕のような小市民としては、
インドという国家に対しては、もう、
誠実なる「祈り」を捧げることぐらいしか出来ないような無力さで。
でも、少しでも、
自分に出来る様なことがあれば頑張りたいとも思っております。
とにかく、全てが他国ごとではなく。
目前の生活のことも、
この国に関することも、
なんとか乗り切らなければと。
そういえば、
こんなことを記していたら、
巷(ちまた)でよく話されたり、
書かれたりもしている様なことを思い出しましたが......
「祈りと願いはどう違うの?」
みたいな。そんなこと。
既にもう、そんなことはあちこちに記されていたり、
議論されていたりもすると思うのですが......例えば、
「祈りとは、意(い、意思、気持ち)を宣(の)るからだ」
とか、
「生(い、いのち)を乗せ、宣ることだからだ」
とか。
そんな感じで。
なので、ここでは、
超、個人的には、
こんなふうに捉えておこうかと思っているのです。
「祈りとは、
皆で本気で祈ったら本当にそうなるもの」
ンなわけねーだろ!?
そんな話じゃねーだろ。
バカじゃね!?
と。
多くの人はそう思われるかと。
もちろんです。ええ。
ただ「祈り」というものが「願い」と違う、
その唯一点と思われるところは、
「見返りを求めない」
という主体者の精神性にあるのではないかと僕は思うわけなのです。
そもそも「願い」とは「見返り」そのもののことでもありますし。
欲しいもの、
手にしたいものソノモノに対して発生する気持ちで。
となると「祈り」とは「主体者の姿勢そのもの」のことでもあり、
「自分は必ず!こうあります!」
「こうあれば!と思っています!」
という宣言や宣誓に近しいことなのだとも思うのです。
ここから論旨を起こすと、例えば
「皆で平和を祈った」
としたら、
本当に皆が、すべからく、全員、
その祈りの通りに行動したとしたら、
争い事が起こる可能性は「ゼロ」になってしまうわけです。
誰かがそれを破るから、
はみ出すから、
争いが起き、
その波が周囲に拡大もしていくわけで。
お隣さんとのブロック塀問題が国家間戦争へと繋がっていく......
などと言っても間違いのない話ではないかと思うのです。
なので、皆で平和を祈り、
「自分は一切の争いをしませんように。
争いはしないで生きていきます!」
という姿勢を宣誓し、
そんなことを、もし一人残らず貫いたらとしたら、
一人残らず祈ったとしたら......
平和にならないわけはないのです。
皆で真に祈り、行動したとしたら必ずそうなる。
「祈り」とは、そんなことのようなのです。
「こうありたい」と願う、見返りを求めない姿勢。
そして、
こう考えてみると、
平和などということに関しても、本当は、
祈りこそが唯一の方法なのかもしれません。
ちなみに、漢字の意味や成り立ち的な所から考察する
「漢和辞典」的な見地からでも同じ様な論旨となっていて。
「祈り」の「祈」という字は、
元は「示(しめす)」編に「斧(おの)」なのだそうです。
「斧」は釣り針の形の先に「刃」を取り付けた
形象イメージの文字なのだそうですが、
要は、「祈」とは、
作物や山海の幸を神に捧げる「供物台」のことで。
ストレートな表現をとれば「いけにえ」の台。
供物を神に捧げ示しながら感謝、宣誓をする。
そんなことから成立して来た文字なのだそうです。
供物を捧げて神に近づくということで、
後に「近い」という文字との重なりも生まれてきて、
そうして現在の「祈」という文字になったのだそうです。
インドも、
この国も、
自分も、
禍(わざわい)から立ち直れます!
立ち直るのです!
立ち直れますように。。
たちなおってくれよーー。。。
たちなおるぞーーー!
むむ。
祈りがわからなくなった。。( ˙-˙ )きょとん。
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