よそいき。よそゆき。
よそ行きの声。
よそ行きの服。
たまに、
そんな「身のこなし」になっている自分に気付く時があります。
悪いことはないし、問題もない。
僕は、AB型の人の様に!?本能で自然に、器用に、罪なく、
身のこなしを変えられる!?
わけではないし!?(・ω・)
本音では、
「よそ行きの無い自分でいたい。。」
と思っているのです。
それが理想なのではないか、と。
正確に言えば、どんな場所でも所作が自然で、
人に障りもなく、美しくあれる。
それが理想なのではないのか、と、思っているのです。
部屋に居る様に「余所=よそ」に出て。
よそに居る様に家にいて。
いつも、どんな時も、誰に対してもフラットで飾らず。
真摯で、本音で、紳士で。
僕はそんな風にして在りたいのです。
僕が「よそ行き」になってしまう様な時はいつも無意識で、本能的で。
そんなふうになってしまう理由も原因も定かではありません。
ただ、スッ......と、そうなってしまいます。
多分、思うに、
僕は何かから身や心を守っているのではないかと思います。
強そうだと思っている人に対して。
社会的に目上だと思っている人に対して。
敵と思っている人に対して。
味方と思っている人に対して。
仕事だと思っていることに対して。
敬愛する人に対して。
恋しい人に対して。
身内と思ってる人に対して。
初めて会った人に対して。
久しぶりに会った人に対して。
多くの人の前で話す時。二人きりで話す時。
そんな雰囲気や空気、世の中に対して。
そんな「よそ行き」は全て、
自分の中にある余計なものから生まれているモノの様な気がしてしまいます。
「よそ行き」の自分が生活の中から消えないということは、
自分の「弱さ」が消えていないということの様にも思えていて、
自分の未完成さと小ささに少々落ち込む様なこともあるのです。
そして、
ラフでくだけ過ぎたパジャマのような服装のまま人に相対することも、
それも「よそ行き」という事と同じコトではないか、と。
安心が過ぎている時。
それは慢心!?している時。
何かを見下している時。
自惚れている時。
相手に気遣いがない時。
他者に愛を欠いているような時。
辛い思いや、
悲しい思いをしていた自分をいつの間にか忘れてしまっている時。
となると、やはり気遣いは必要で。
「よそ行きの自分を無くす」ということは、
自分の有り様が他者を自然と安心させ、
リラックスもさせる事が出来るという様なことでもあって。
実は、それが理想の「よそ行き」なのだと思うのです。
同時にそれが「普段着」でもあれ、とも思うのです。
どんな時もフラットで磨き上げた素の自分でいたいと思うのです。
素のままで、余所行きの場所でもどこでも普通に受け入れられる、
そんな素に磨き上げたいと、
そんな人になりたいと、
願うのです。
喜怒哀楽、敬親友愛、愛別離苦に老病生死。
春夏秋冬に年末年始。
「忙しいですぅ......ヒマなんですぅ......」
もなく。
どんな時もその姿を微笑ましく、
「いいなぁ......許せるなぁ......」
と思えてしまう人を見るにつけ、
感じてしまうのはタダタダ自分の未完成さなのです。
年の瀬のやたらめったら忙しい毎日で、
「ちゅんちゅん。。」
と頭上の木々の間を飛び回る鳥さん達には
そんな忙しさなどあるハズもなく。
カレンダーなど全く関係なく。
「よそ行き」もヘッタクレもなく。
ただ毎日、自然と一体となり、ひたすら
「ちゅんちゅん。。」
としているわけで。
いつも変わらないそんな姿は
「種」としての完成された姿の様に思える時があります。
「人間の完成された姿って......どんなだろう。。」
理不尽なまでに時間に追われている年末、師走。
それは自分の未完成さに追われている日々のようにも思えています。
「よそ行き」の自分に追われているようにも思えています。
今日、今年最後になるであろう新しい愛しのハワイ・コナ珈琲を開けました(^_^)
2010年の
「Kona Coffee Cupping Contest=コナ・コーヒー・カッピング・コンテスト」
で一位を取ったコーヒーさんで、
その名も「Buddha's Cup=ブッダズ・カップ」
(ちなみに2011年はこれですの)
それでもって
「EXTRA PRIVATE RESERVE=エクストラ・プライベート・リザーブ」
ですの!(><)/
仏のようになれますように!?
なんてチョイスだったりもして、ね。( ̄▽ ̄)ええ。
コレね......
ブッダね......
意外とね......
苦いのよ!(=゜ω゜)ノ
よそ行きの声。
よそ行きの服。
たまに、
そんな「身のこなし」になっている自分に気付く時があります。
悪いことはないし、問題もない。
僕は、AB型の人の様に!?本能で自然に、器用に、罪なく、
身のこなしを変えられる!?
わけではないし!?(・ω・)
本音では、
「よそ行きの無い自分でいたい。。」
と思っているのです。
それが理想なのではないか、と。
正確に言えば、どんな場所でも所作が自然で、
人に障りもなく、美しくあれる。
それが理想なのではないのか、と、思っているのです。
部屋に居る様に「余所=よそ」に出て。
よそに居る様に家にいて。
いつも、どんな時も、誰に対してもフラットで飾らず。
真摯で、本音で、紳士で。
僕はそんな風にして在りたいのです。
僕が「よそ行き」になってしまう様な時はいつも無意識で、本能的で。
そんなふうになってしまう理由も原因も定かではありません。
ただ、スッ......と、そうなってしまいます。
多分、思うに、
僕は何かから身や心を守っているのではないかと思います。
強そうだと思っている人に対して。
社会的に目上だと思っている人に対して。
敵と思っている人に対して。
味方と思っている人に対して。
仕事だと思っていることに対して。
敬愛する人に対して。
恋しい人に対して。
身内と思ってる人に対して。
初めて会った人に対して。
久しぶりに会った人に対して。
多くの人の前で話す時。二人きりで話す時。
そんな雰囲気や空気、世の中に対して。
そんな「よそ行き」は全て、
自分の中にある余計なものから生まれているモノの様な気がしてしまいます。
「よそ行き」の自分が生活の中から消えないということは、
自分の「弱さ」が消えていないということの様にも思えていて、
自分の未完成さと小ささに少々落ち込む様なこともあるのです。
そして、
ラフでくだけ過ぎたパジャマのような服装のまま人に相対することも、
それも「よそ行き」という事と同じコトではないか、と。
安心が過ぎている時。
それは慢心!?している時。
何かを見下している時。
自惚れている時。
相手に気遣いがない時。
他者に愛を欠いているような時。
辛い思いや、
悲しい思いをしていた自分をいつの間にか忘れてしまっている時。
となると、やはり気遣いは必要で。
「よそ行きの自分を無くす」ということは、
自分の有り様が他者を自然と安心させ、
リラックスもさせる事が出来るという様なことでもあって。
実は、それが理想の「よそ行き」なのだと思うのです。
同時にそれが「普段着」でもあれ、とも思うのです。
どんな時もフラットで磨き上げた素の自分でいたいと思うのです。
素のままで、余所行きの場所でもどこでも普通に受け入れられる、
そんな素に磨き上げたいと、
そんな人になりたいと、
願うのです。
喜怒哀楽、敬親友愛、愛別離苦に老病生死。
春夏秋冬に年末年始。
「忙しいですぅ......ヒマなんですぅ......」
もなく。
どんな時もその姿を微笑ましく、
「いいなぁ......許せるなぁ......」
と思えてしまう人を見るにつけ、
感じてしまうのはタダタダ自分の未完成さなのです。
年の瀬のやたらめったら忙しい毎日で、
「ちゅんちゅん。。」
と頭上の木々の間を飛び回る鳥さん達には
そんな忙しさなどあるハズもなく。
カレンダーなど全く関係なく。
「よそ行き」もヘッタクレもなく。
ただ毎日、自然と一体となり、ひたすら
「ちゅんちゅん。。」
としているわけで。
いつも変わらないそんな姿は
「種」としての完成された姿の様に思える時があります。
「人間の完成された姿って......どんなだろう。。」
理不尽なまでに時間に追われている年末、師走。
それは自分の未完成さに追われている日々のようにも思えています。
「よそ行き」の自分に追われているようにも思えています。
今日、今年最後になるであろう新しい愛しのハワイ・コナ珈琲を開けました(^_^)
2010年の
「Kona Coffee Cupping Contest=コナ・コーヒー・カッピング・コンテスト」
で一位を取ったコーヒーさんで、
その名も「Buddha's Cup=ブッダズ・カップ」
(ちなみに2011年はこれですの)
それでもって
「EXTRA PRIVATE RESERVE=エクストラ・プライベート・リザーブ」
ですの!(><)/
仏のようになれますように!?
なんてチョイスだったりもして、ね。( ̄▽ ̄)ええ。
コレね......
ブッダね......
意外とね......
苦いのよ!(=゜ω゜)ノ
理想です。
なかなか難しいですが、ストレスなく生きていけるようになるには、ちょっとした関門みたいなものでしょうか。
応援しておきました。ポチッ