「苦しくて辛い日々を凝縮したような、
そんな一日の戦いでした。
自分の中で悲観的な思いしかなくて、
不安でいっぱいの日々を昨年から過ごしていたのですが、
一日で報われたと思っていませんし、
私の柔道人生はこれからも続いていくので、
今後も自分を倒す稽古(けいこ)を
継続してやっていきたいです」
オリンピック柔道、男子73キロ級を二連覇!した、
金メダリストの大野翔平さんが
試合直後のインタビューで話していた言葉。
なかなか熱くなれず、
薄曇りでグレーな心で見ている今回のオリンピックにおいて、
今のところ、個人的に一番心に残っている言葉でしょうか。
世界に恥を晒しているのでは無いか!?
なんて落ち込んでしまうような今回のオリンピック運営を
一部救ってくれるような言葉。
この言葉を話した後、
代表監督の井上康生さんと抱き合って
互いに涙をこぼしていたシーンにはちょっと泣かされました。
「自分を倒す稽古を継続してやっていきたいです」
なんという言葉。
武道家しか生めないような言葉。
すげーーー。。
「おりわ自分に倒されてばかりやんけぇぇーーーっ!(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)」
僕はこの大野さんという人がとても好きです。
金メダルを取っても、勝っても泰然としていて。
負けても泰然としていて......
といっても、負けた姿は見たことが無いのですけど。
でも、いつも彼の深いところにある「何か」の、
高貴な在りようを見せられている気がして。
強く感心してしまいます。
尊敬なのです。(●´ω`●)ジーーン。。
武道家とはこういうものなのでしょうか。
武だけでなく、そこに「道」もある人。
「道可道、非常道」
—————道の道とすべきは、常の道にあらず。
そんな、
かの「老子(ろうし)」の冒頭に書かれている言葉も、
彼を見ていると自然と脳裏に浮かんできてしまうのです。
<原文>
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。
同謂之玄。
玄之又玄、衆妙之門。
<書き下し文>
道(みち)の道とすべきは、常の道に非(あら)ず。
名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。
名の無きは天地の始め、名の有るは万物の母。
故に常に無欲にして、その妙(みょう)を観(み)、
常に有欲にして、その徼(きょう)を観る。
この両者は同じきに出でて、而(しか)も名を異(こと)にす。
同じきをこれを玄(げん)と謂(い)い、
玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
<現代語訳>
道を道とすべきは常の道ではない。
名は名とした時点で名では無くなる。
天地が創られた時には名など存在せず、
万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。
だから無欲な心をもってすれば、
万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。
欲望の虜のままでは万物の上辺の姿しか見る事ができない。
これら万物の二つの姿は、それぞれ名前は違えど、
同じ一つの根源から生じている。
その根源を私は「玄」と名づけたが、
その玄のさらに玄、
神秘を生み出す更なる神秘からこの世の全ては生み出されている。
—————老子。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/ca/ea7f772de16058c65c6f1707f6d69b85.jpg)
いわゆる「道教」の元となった名著「老子」。
上記した「道=タオ =TAO」の話から始まる故に、
道の教え......道教とか、タオ思想とか言われる様になりました。
老子は実在の人物の尊称とされていますが、
諸説もあるようです。
僕は参考書として上の写真にある二冊を持っていて。
一つは「タオ —老子—/加島祥造」
もう一冊は
「老子・列子(中国の思想)/奥平卓、 大村益夫」
最早、デジタル化されたkindle版の方がいいかなぁ、とか。
そんなことも思っていますが、改めて、老子って......
なんだろ......
世捨て人の心というか、処世術というか。
仙人的で不思議な魅力にあふれている書であり、
思想だと思うわけです。
そんな一日の戦いでした。
自分の中で悲観的な思いしかなくて、
不安でいっぱいの日々を昨年から過ごしていたのですが、
一日で報われたと思っていませんし、
私の柔道人生はこれからも続いていくので、
今後も自分を倒す稽古(けいこ)を
継続してやっていきたいです」
オリンピック柔道、男子73キロ級を二連覇!した、
金メダリストの大野翔平さんが
試合直後のインタビューで話していた言葉。
なかなか熱くなれず、
薄曇りでグレーな心で見ている今回のオリンピックにおいて、
今のところ、個人的に一番心に残っている言葉でしょうか。
世界に恥を晒しているのでは無いか!?
なんて落ち込んでしまうような今回のオリンピック運営を
一部救ってくれるような言葉。
この言葉を話した後、
代表監督の井上康生さんと抱き合って
互いに涙をこぼしていたシーンにはちょっと泣かされました。
「自分を倒す稽古を継続してやっていきたいです」
なんという言葉。
武道家しか生めないような言葉。
すげーーー。。
「おりわ自分に倒されてばかりやんけぇぇーーーっ!(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)」
僕はこの大野さんという人がとても好きです。
金メダルを取っても、勝っても泰然としていて。
負けても泰然としていて......
といっても、負けた姿は見たことが無いのですけど。
でも、いつも彼の深いところにある「何か」の、
高貴な在りようを見せられている気がして。
強く感心してしまいます。
尊敬なのです。(●´ω`●)ジーーン。。
武道家とはこういうものなのでしょうか。
武だけでなく、そこに「道」もある人。
「道可道、非常道」
—————道の道とすべきは、常の道にあらず。
そんな、
かの「老子(ろうし)」の冒頭に書かれている言葉も、
彼を見ていると自然と脳裏に浮かんできてしまうのです。
<原文>
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。
同謂之玄。
玄之又玄、衆妙之門。
<書き下し文>
道(みち)の道とすべきは、常の道に非(あら)ず。
名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。
名の無きは天地の始め、名の有るは万物の母。
故に常に無欲にして、その妙(みょう)を観(み)、
常に有欲にして、その徼(きょう)を観る。
この両者は同じきに出でて、而(しか)も名を異(こと)にす。
同じきをこれを玄(げん)と謂(い)い、
玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。
<現代語訳>
道を道とすべきは常の道ではない。
名は名とした時点で名では無くなる。
天地が創られた時には名など存在せず、
万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。
だから無欲な心をもってすれば、
万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。
欲望の虜のままでは万物の上辺の姿しか見る事ができない。
これら万物の二つの姿は、それぞれ名前は違えど、
同じ一つの根源から生じている。
その根源を私は「玄」と名づけたが、
その玄のさらに玄、
神秘を生み出す更なる神秘からこの世の全ては生み出されている。
—————老子。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/ca/ea7f772de16058c65c6f1707f6d69b85.jpg)
いわゆる「道教」の元となった名著「老子」。
上記した「道=タオ =TAO」の話から始まる故に、
道の教え......道教とか、タオ思想とか言われる様になりました。
老子は実在の人物の尊称とされていますが、
諸説もあるようです。
僕は参考書として上の写真にある二冊を持っていて。
一つは「タオ —老子—/加島祥造」
もう一冊は
「老子・列子(中国の思想)/奥平卓、 大村益夫」
最早、デジタル化されたkindle版の方がいいかなぁ、とか。
そんなことも思っていますが、改めて、老子って......
なんだろ......
世捨て人の心というか、処世術というか。
仙人的で不思議な魅力にあふれている書であり、
思想だと思うわけです。
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