未来世界に必殺!ビリビリ光線銃!なるものがあって。
そいつで僕が
「ビリビリビリッ!ヽ( ̄д ̄;)ノ」
......と、撃たれたとします。
この光線銃に当たると全ての物体は物質を作る粒子レベルにまでバラバラに分解されてしまい。
その分解された粒子は霧のように舞い散り、
雲のように消えて行ってしまいます。
残るのは何もない空間。
何かがキット存在していたであろう空間がポツンとあるのみ......
「o(`ω´ )oウリャーッ!!ビリビリビリィィィーーーッ!!」
「にゃぁぁーーーっ!ヽ(;▽;)ノ やらりたぁぁーーーっ!消えちゃうぅーーー!」
僕の体が、
形あるものが、
ドンドン......と、
崩れて行きます。
何もかもが細かく壊れ散って行きます。
かつて僕の体だったモノは霧のようになって空間に漂い出し、
空気に混じりだし、
やがてその空気との区別すらもつかなくなっていって、
周囲の風景とドンドンと同化していって......
そして、消えて行きます......
その時、光線銃に打たれて消えてゆく僕はきっとこんな事を思うのです——————
「あぁ......そうか......
俺って、水や空気と同じもので出来ていたんだ。
なんだ、そうだったのか。
川や海や山とも、あの空とも、地球とも宇宙とも、
アイツやコイツとも、ワンさんやニャンコさんとも、
......なんだ、同じもので出来ていたんだ......」
———————ご臨終でございます(T . T)
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland......
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国......「イギリス」、の誇る偉大な画家
「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー=Joseph Mallord William Turner」
さんの絵が、なんと110点も!
来日している!(*゜ロ゜) キュッ!!というので、
先日、東京、上野の森にある「東京都美術館」に
イソイソとお出かけしてきました(^_^)
僕にとってターナーさんの絵というのは、
特に後期から晩年にかけての絵というのは、
冒頭に記した様に風景、人、モノ......多くのものの境界線が取り払われ。
全てが渾然一体となって光のように輝き、霧のように漂う......そんな感じ。
これは「湖の向こうの夕暮れ」という作品。
ネットからチト拝借。。(゜ω゜;A)
今回の展覧会では出口近くにラストを飾る様にして展示されていました。
専門家の間では未だ完成作なのか?未完成なのか?
という議論が続いている作品だそうです。
どちらなのか?
当然僕に分かるハズはありませんが、僕は......紛れも無い「傑作」だと、
そう思ったりなんかしています(^^)
こちらは「レグルス」という作品。ネットから拝借。
こちらは「バターミア湖」と呼ばれる作品さん。同じく拝借。
やっぱり、僕の印象は最初に記したような感じで......
それは、なんとなく、ターナーさんは全ての物質が
同じ様な粒子の組み合わせで出来ているというようなことを
ちゃんと知っていたのかもしれない......という印象。
それは現代の先端物理学者のように、確信を持って。
人も動物も海も山も河も......全てのものは似たような粒子から出来ていて。
そのほんの少しの組み合わせの違いだけで違うものとして生成されていて。
だから本当は全てのものに境界などなくて。
線などなくて。
皆重なり合って一つの世界を創り上げている。
一つ世界で存在している......
晩年のターナーさんの目には、
この世界はそんな風に見えていたのかもしれないな、と。
僕にはそんなふうに思えるのです。
もう一つ。
今回の展覧会でターナーさんの初期から晩年に至るまでの膨大な数の絵を
いっぺんに見させてもらう中で感じたことは、
「時に知性はアートの邪魔をする」
ということでしょうか。
10代で水彩画家になり。
26歳でイギリス美術界の絶対的権威であるロイヤルアカデミー附属美術学校の正会員。
そんなエリート道を歩む彼の「初期」作品から僕が感じることは
「とても頭の良い人」
ということ。
そして、そのあまりに高回転できる頭脳の持ち主ゆえの、
自らの絵に対する細かい試行錯誤。
その「細かい思考」がアートになろうとしている作品を
少しばかり邪魔をしてしまっているという様な状態。
それは僕だけの「特異」な感想だとは思いますが、
初期の作品からは僕はそんな感じを受けていました。
この頃のターナーさんの絵にはまだ世界を区切る境界線がチロチロと描かれていて。
ソレは特に人の描写などにとても強く出ていたりして。
混じり合って描かれている世界と、それらと混じり合っていない世界。
絵画そのものとターナーさん。
この頃の絵は、そんな感じでなんとなく「二分」されているような印象が僕にはあって。
伝わってくるモノは絵より先に彼の思考や知性だったりもして。
やがて「カラービギニング=色彩のはじまり」と呼ばれる
自らの絵、色、タッチなどに対する再考、実験を繰り返すような時期が訪れ。
個人的な印象では、そこから彼の絵は一気に違うものへと、
一気に「アート」へと、
しかもその「高み」へと、
登っていったような感じを受けます。
僕はそんな「カラービギニング」時期以降の作品がとても好きです。
それはもう、感動的に好きです。
この時期以前にも「何作」か、
その後のターナーさんを予見出来る様な作品が時折描かれていたりもするのですが、
この「カラービギニング期」以降からは、
全ての絵から明確な線や区切りの様なものが無くなって。
同時に彼の強い思考や知性みたいなものも感じられなくなり。
そして、一つ世界に万物が無垢に溶け込んで存在しているような......
そんな作品が描かれていくように思えました。
万物がキラキラと輝く光の粒でできている世界。
そんなキャリア後期のターナーさんの絵は、
当時各方面から色々な批判を浴びていたそうです。
「わけわからんよ!ちみ!」
......的な。そんな人々にターナーさんはこう言っていたそうです。
「それがどうしました?
肝心なことはただ一つ。印象を呼び起こすことです」
そんな彼の作品が無かったら、僕の大好きな「モネ」や、
モネを代表とする「印象派」のタッチなども生まれなかったのかもしれません。
意図が無ければ何も始まらない。
意図を消せなければ何も完成しない。
それが今回のターナーさんの展覧会で改めて僕が痛切に感じたこと。
感謝。
山下達郎さんのアルバム「ARTISAN=アルチザン」
僕が始めてターナーという画家さんを知ったのは
実はこのアルバムに収録されていた「ターナーの汽罐車」という曲からでした。
ちなみにその絵というのはコチラと思われます......
「雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道」
(Rain, Steam and Speed −The Great Western Railway−)
わけわからん!?(@。@)
しかし......流石!達郎さん。
ポップスにターナーの絵を重ねて来るなんて、もう......
なんと素敵な......(= ̄ ρ ̄=) ...
そいつで僕が
「ビリビリビリッ!ヽ( ̄д ̄;)ノ」
......と、撃たれたとします。
この光線銃に当たると全ての物体は物質を作る粒子レベルにまでバラバラに分解されてしまい。
その分解された粒子は霧のように舞い散り、
雲のように消えて行ってしまいます。
残るのは何もない空間。
何かがキット存在していたであろう空間がポツンとあるのみ......
「o(`ω´ )oウリャーッ!!ビリビリビリィィィーーーッ!!」
「にゃぁぁーーーっ!ヽ(;▽;)ノ やらりたぁぁーーーっ!消えちゃうぅーーー!」
僕の体が、
形あるものが、
ドンドン......と、
崩れて行きます。
何もかもが細かく壊れ散って行きます。
かつて僕の体だったモノは霧のようになって空間に漂い出し、
空気に混じりだし、
やがてその空気との区別すらもつかなくなっていって、
周囲の風景とドンドンと同化していって......
そして、消えて行きます......
その時、光線銃に打たれて消えてゆく僕はきっとこんな事を思うのです——————
「あぁ......そうか......
俺って、水や空気と同じもので出来ていたんだ。
なんだ、そうだったのか。
川や海や山とも、あの空とも、地球とも宇宙とも、
アイツやコイツとも、ワンさんやニャンコさんとも、
......なんだ、同じもので出来ていたんだ......」
———————ご臨終でございます(T . T)
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland......
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国......「イギリス」、の誇る偉大な画家
「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー=Joseph Mallord William Turner」
さんの絵が、なんと110点も!
来日している!(*゜ロ゜) キュッ!!というので、
先日、東京、上野の森にある「東京都美術館」に
イソイソとお出かけしてきました(^_^)
僕にとってターナーさんの絵というのは、
特に後期から晩年にかけての絵というのは、
冒頭に記した様に風景、人、モノ......多くのものの境界線が取り払われ。
全てが渾然一体となって光のように輝き、霧のように漂う......そんな感じ。
これは「湖の向こうの夕暮れ」という作品。
ネットからチト拝借。。(゜ω゜;A)
今回の展覧会では出口近くにラストを飾る様にして展示されていました。
専門家の間では未だ完成作なのか?未完成なのか?
という議論が続いている作品だそうです。
どちらなのか?
当然僕に分かるハズはありませんが、僕は......紛れも無い「傑作」だと、
そう思ったりなんかしています(^^)
こちらは「レグルス」という作品。ネットから拝借。
こちらは「バターミア湖」と呼ばれる作品さん。同じく拝借。
やっぱり、僕の印象は最初に記したような感じで......
それは、なんとなく、ターナーさんは全ての物質が
同じ様な粒子の組み合わせで出来ているというようなことを
ちゃんと知っていたのかもしれない......という印象。
それは現代の先端物理学者のように、確信を持って。
人も動物も海も山も河も......全てのものは似たような粒子から出来ていて。
そのほんの少しの組み合わせの違いだけで違うものとして生成されていて。
だから本当は全てのものに境界などなくて。
線などなくて。
皆重なり合って一つの世界を創り上げている。
一つ世界で存在している......
晩年のターナーさんの目には、
この世界はそんな風に見えていたのかもしれないな、と。
僕にはそんなふうに思えるのです。
もう一つ。
今回の展覧会でターナーさんの初期から晩年に至るまでの膨大な数の絵を
いっぺんに見させてもらう中で感じたことは、
「時に知性はアートの邪魔をする」
ということでしょうか。
10代で水彩画家になり。
26歳でイギリス美術界の絶対的権威であるロイヤルアカデミー附属美術学校の正会員。
そんなエリート道を歩む彼の「初期」作品から僕が感じることは
「とても頭の良い人」
ということ。
そして、そのあまりに高回転できる頭脳の持ち主ゆえの、
自らの絵に対する細かい試行錯誤。
その「細かい思考」がアートになろうとしている作品を
少しばかり邪魔をしてしまっているという様な状態。
それは僕だけの「特異」な感想だとは思いますが、
初期の作品からは僕はそんな感じを受けていました。
この頃のターナーさんの絵にはまだ世界を区切る境界線がチロチロと描かれていて。
ソレは特に人の描写などにとても強く出ていたりして。
混じり合って描かれている世界と、それらと混じり合っていない世界。
絵画そのものとターナーさん。
この頃の絵は、そんな感じでなんとなく「二分」されているような印象が僕にはあって。
伝わってくるモノは絵より先に彼の思考や知性だったりもして。
やがて「カラービギニング=色彩のはじまり」と呼ばれる
自らの絵、色、タッチなどに対する再考、実験を繰り返すような時期が訪れ。
個人的な印象では、そこから彼の絵は一気に違うものへと、
一気に「アート」へと、
しかもその「高み」へと、
登っていったような感じを受けます。
僕はそんな「カラービギニング」時期以降の作品がとても好きです。
それはもう、感動的に好きです。
この時期以前にも「何作」か、
その後のターナーさんを予見出来る様な作品が時折描かれていたりもするのですが、
この「カラービギニング期」以降からは、
全ての絵から明確な線や区切りの様なものが無くなって。
同時に彼の強い思考や知性みたいなものも感じられなくなり。
そして、一つ世界に万物が無垢に溶け込んで存在しているような......
そんな作品が描かれていくように思えました。
万物がキラキラと輝く光の粒でできている世界。
そんなキャリア後期のターナーさんの絵は、
当時各方面から色々な批判を浴びていたそうです。
「わけわからんよ!ちみ!」
......的な。そんな人々にターナーさんはこう言っていたそうです。
「それがどうしました?
肝心なことはただ一つ。印象を呼び起こすことです」
そんな彼の作品が無かったら、僕の大好きな「モネ」や、
モネを代表とする「印象派」のタッチなども生まれなかったのかもしれません。
意図が無ければ何も始まらない。
意図を消せなければ何も完成しない。
それが今回のターナーさんの展覧会で改めて僕が痛切に感じたこと。
感謝。
山下達郎さんのアルバム「ARTISAN=アルチザン」
僕が始めてターナーという画家さんを知ったのは
実はこのアルバムに収録されていた「ターナーの汽罐車」という曲からでした。
ちなみにその絵というのはコチラと思われます......
「雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道」
(Rain, Steam and Speed −The Great Western Railway−)
わけわからん!?(@。@)
しかし......流石!達郎さん。
ポップスにターナーの絵を重ねて来るなんて、もう......
なんと素敵な......(= ̄ ρ ̄=) ...
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