島一つ見えない大海原を、
遥か遠くまで見渡せる山の上。
漁師さんとか、
灯台の管理人さん!?とか、
サーファーさんとか、
そんな生業や仕事の延長上にある話などではなく。
ましてや住んでいる場所自体が
「そんな所ですよーん(^^)b」
......ということでもなく。
普段自分がいる世界と少し距離をおいた状況や心境で、
そんな大海を見渡せる小高い山の上に立った時、
人はいったいどんなことを思うのでしょうか。
幼い頃からそんな場所が身近にあって、
ソコに行こうと思ば直ぐに行けるような所に住んでいて、でも......
その住んでいる家は自分の生まれた家でなく。
見ず知らずの人の家。
母とは幼くして生き別れ、顔の記憶も無い。
唯一、傍にいた父からも、
父と敵対する見ず知らずの他人の元に
「親の保身の為」と差し出され。
人質として、他人の家で身の置き場もなく暮らしている......
そんな幼少時代を何年も何年も過ごしている少年が、
大海原を遥か遠くまで見渡せる小高い山の頂きに立った時、
彼は......
徳川家康は......
一体どんなことを思ったのでしょうか。
先日、静岡に行くことがあって、
「徳川家康」の故郷の墓領でもある
「久能山東照宮=くのうさんとうしょうぐう」に
ちょこっと立ち寄って来ました。
今日の話は、コノときの記事
「急ぐべからず」の続き......という感じでしょうか。
徳川家康は亡くなる直前に家臣達にいくつかの遺言を残したそうです。
そのうち、自分の遺骸に関しては、
幼少期と隠居後の最晩年を過ごした故郷、
静岡の「駿府城=すんぷじょう」にと。
その近くにある、海を見渡せる小高い山の上......
「久能山」に納めた後、
一周忌をもって「日光東照宮」に移すように......と、
そう伝えたのだそうです。
一般的に家康の遺骸は「日光東照宮」の方にあるとされていますが、
久能山の宮司の方々に聞くと、こんなわけもあって
「こちらにも遺骸はあります。。。」
と答えられます。
どちらかが嘘なのか?
どちらも本当なのか......
「久能山東照宮」は静岡市内からほど近い、
太平洋が見渡せる海沿いの小高い山の上にあって。
日本平という所からロープウェイで行くことも出来ます。
が、しかし、基本は海沿いの道から1100段以上もアル!
ながーーーい、ながーーい階段を
「ひぃぃぃーーっ(@。@)」
と言いながら登っていくことになります。
こーーんな感じ......
ひいぃぃぃ。。。(><)
家康は幼少の頃、
静岡市の中心部にある「駿府城」に人質として囚われていました。
そこから、時折ココに来て海を眺めていたそうです。
囚われの身だった幼い家康はいったい、
どんなことを思いながらこの海を見ていたのでしょうか。
この神社は、当然、
家康が子供だった頃は家康自身を表す「東照宮」という名前ではなく、
普通のお寺だったそうです。
歴史の中では「城」として改修されたり、
少々の変遷もあったようですが、
家康が亡くなった後の久能山は、家康の遺言に従い、
当時の技術の粋を集めた壮麗なる神社へと生まれ変わり、
家康自身の遺骸も埋葬され、
今に至る「久能山東照宮」へと名前を変えたのだそうです。
なので、実はココが家康を祀った最初の神社......
全国東照宮の「元宮」でもあるわけです。
その山門や、国宝にも指定されている社殿等々......
日光に負けず劣らず、すげーーすげーーで......(*゜O゜)ノ ワオォ!!
徳川家「三つ葉葵=みつばあおい」の紋や家康さんの手形も......
静岡には「ガンプラ=ガンダムのプラモデル」で有名な
バンダイ工場の本社や、
タミヤ模型、ハセガワ、フジミ模型、青島文化教材......
といった有名大手模型会社が沢山あります。
その数々の模型会社の起源をさかのぼると、
実はこの「久能山東照宮」や、
家康の崇敬も厚かった「静岡浅間神社」の造営のために、
全国から優秀な職人さんが数多く
この地に集められたことにあるようなのです。
特に家康最初の墓領とも言える「久能山東照宮」の造営は、
当時、国の一大事でもありました。
そして、造営が終了した後も、
この静岡の地に残り暮らした職人さん達が沢山居たようで、
後に質の高い雛人形や竹細工の工芸品などを
名産品として産み出していったようです。
昭和に入ると、
新たにプラスチックモデルのマーケットなどが生まれ。発展し。
この静岡の地には、
そんな職人さん達が数多く住まうという基盤があった為、
今に至る名だたる「模型メーカー」が
生まれて来たということなのです。
なので「久能山東照宮」には、
そんな静岡の歴史を物語る模型メーカーさんからの
寄贈品も色々とあります。
「神社の中にガンダムが!?」
なんていう特殊な存在感を放っている神社さんだったりもするのです。
甲冑を着たバージョンのガンダムがぁぁーーっ!w(゜ロ゜)w オォーー!
この「久能山東照宮」で模型会社の寄贈品などを見ていると、
改めて、家康さんが基礎を築いた「江戸時代」というのは、
それ以前にあった日本という国の独自文化や技術などを磨き上げ、
熟成、発展させ、
今に至る国の「基礎」として完成させた時代だったのかなぁ......
などとも思ってしまいます。
偉大な時代というか、なんというか。
閉鎖的でありながら進歩的というか。
不思議で独特な時代。
そんな時代を作った家康が愛していたであろう景色というのは、
実際目にしてみると、
なんだかとても穏やかで、大きな景色でした。
個人的には......遺骸は、
きっと、日光と久能山の両方にあると思います。
自らの遺骸を、
人間性の根本に関わった故郷の地と、
もう一つ、
国の統治者として様々な苦悩や犠牲を経験し、
生き抜いた果てに眠ることになった日光の地と、
その両方に納めることこそが、その方が、
僕には家康という人物をよく表しているように思えるからです。
心の拠り所となっていた風景のある地と、
信念や裏切りや、
欲望や野心が渦巻く虚々実々の果てに辿り着いた地と。
民衆と統治者というか。
家庭と仕事というか。
日常と非日常というか。
久能山と日光というか。
海と山というか。
なんと言うか......そんな感覚。
幼い時と晩年の時。
その両時代。
ここに訪れた家康さんが久能山の上でどんなことを思っていたのか......
そんなことが幾つか心に浮かんで、消えて、
浮かんで、消えて......
それが僕の感じた久能山東照宮なのです。
地元名産のイチゴをたぷーーーーーり!
とマゼマゼしたイチゴソフトクリーーム!!
これが、僕の久能山東照宮( ̄ー+ ̄)ニヤリ
遥か遠くまで見渡せる山の上。
漁師さんとか、
灯台の管理人さん!?とか、
サーファーさんとか、
そんな生業や仕事の延長上にある話などではなく。
ましてや住んでいる場所自体が
「そんな所ですよーん(^^)b」
......ということでもなく。
普段自分がいる世界と少し距離をおいた状況や心境で、
そんな大海を見渡せる小高い山の上に立った時、
人はいったいどんなことを思うのでしょうか。
幼い頃からそんな場所が身近にあって、
ソコに行こうと思ば直ぐに行けるような所に住んでいて、でも......
その住んでいる家は自分の生まれた家でなく。
見ず知らずの人の家。
母とは幼くして生き別れ、顔の記憶も無い。
唯一、傍にいた父からも、
父と敵対する見ず知らずの他人の元に
「親の保身の為」と差し出され。
人質として、他人の家で身の置き場もなく暮らしている......
そんな幼少時代を何年も何年も過ごしている少年が、
大海原を遥か遠くまで見渡せる小高い山の頂きに立った時、
彼は......
徳川家康は......
一体どんなことを思ったのでしょうか。
先日、静岡に行くことがあって、
「徳川家康」の故郷の墓領でもある
「久能山東照宮=くのうさんとうしょうぐう」に
ちょこっと立ち寄って来ました。
今日の話は、コノときの記事
「急ぐべからず」の続き......という感じでしょうか。
徳川家康は亡くなる直前に家臣達にいくつかの遺言を残したそうです。
そのうち、自分の遺骸に関しては、
幼少期と隠居後の最晩年を過ごした故郷、
静岡の「駿府城=すんぷじょう」にと。
その近くにある、海を見渡せる小高い山の上......
「久能山」に納めた後、
一周忌をもって「日光東照宮」に移すように......と、
そう伝えたのだそうです。
一般的に家康の遺骸は「日光東照宮」の方にあるとされていますが、
久能山の宮司の方々に聞くと、こんなわけもあって
「こちらにも遺骸はあります。。。」
と答えられます。
どちらかが嘘なのか?
どちらも本当なのか......
「久能山東照宮」は静岡市内からほど近い、
太平洋が見渡せる海沿いの小高い山の上にあって。
日本平という所からロープウェイで行くことも出来ます。
が、しかし、基本は海沿いの道から1100段以上もアル!
ながーーーい、ながーーい階段を
「ひぃぃぃーーっ(@。@)」
と言いながら登っていくことになります。
こーーんな感じ......
ひいぃぃぃ。。。(><)
家康は幼少の頃、
静岡市の中心部にある「駿府城」に人質として囚われていました。
そこから、時折ココに来て海を眺めていたそうです。
囚われの身だった幼い家康はいったい、
どんなことを思いながらこの海を見ていたのでしょうか。
この神社は、当然、
家康が子供だった頃は家康自身を表す「東照宮」という名前ではなく、
普通のお寺だったそうです。
歴史の中では「城」として改修されたり、
少々の変遷もあったようですが、
家康が亡くなった後の久能山は、家康の遺言に従い、
当時の技術の粋を集めた壮麗なる神社へと生まれ変わり、
家康自身の遺骸も埋葬され、
今に至る「久能山東照宮」へと名前を変えたのだそうです。
なので、実はココが家康を祀った最初の神社......
全国東照宮の「元宮」でもあるわけです。
その山門や、国宝にも指定されている社殿等々......
日光に負けず劣らず、すげーーすげーーで......(*゜O゜)ノ ワオォ!!
徳川家「三つ葉葵=みつばあおい」の紋や家康さんの手形も......
静岡には「ガンプラ=ガンダムのプラモデル」で有名な
バンダイ工場の本社や、
タミヤ模型、ハセガワ、フジミ模型、青島文化教材......
といった有名大手模型会社が沢山あります。
その数々の模型会社の起源をさかのぼると、
実はこの「久能山東照宮」や、
家康の崇敬も厚かった「静岡浅間神社」の造営のために、
全国から優秀な職人さんが数多く
この地に集められたことにあるようなのです。
特に家康最初の墓領とも言える「久能山東照宮」の造営は、
当時、国の一大事でもありました。
そして、造営が終了した後も、
この静岡の地に残り暮らした職人さん達が沢山居たようで、
後に質の高い雛人形や竹細工の工芸品などを
名産品として産み出していったようです。
昭和に入ると、
新たにプラスチックモデルのマーケットなどが生まれ。発展し。
この静岡の地には、
そんな職人さん達が数多く住まうという基盤があった為、
今に至る名だたる「模型メーカー」が
生まれて来たということなのです。
なので「久能山東照宮」には、
そんな静岡の歴史を物語る模型メーカーさんからの
寄贈品も色々とあります。
「神社の中にガンダムが!?」
なんていう特殊な存在感を放っている神社さんだったりもするのです。
甲冑を着たバージョンのガンダムがぁぁーーっ!w(゜ロ゜)w オォーー!
この「久能山東照宮」で模型会社の寄贈品などを見ていると、
改めて、家康さんが基礎を築いた「江戸時代」というのは、
それ以前にあった日本という国の独自文化や技術などを磨き上げ、
熟成、発展させ、
今に至る国の「基礎」として完成させた時代だったのかなぁ......
などとも思ってしまいます。
偉大な時代というか、なんというか。
閉鎖的でありながら進歩的というか。
不思議で独特な時代。
そんな時代を作った家康が愛していたであろう景色というのは、
実際目にしてみると、
なんだかとても穏やかで、大きな景色でした。
個人的には......遺骸は、
きっと、日光と久能山の両方にあると思います。
自らの遺骸を、
人間性の根本に関わった故郷の地と、
もう一つ、
国の統治者として様々な苦悩や犠牲を経験し、
生き抜いた果てに眠ることになった日光の地と、
その両方に納めることこそが、その方が、
僕には家康という人物をよく表しているように思えるからです。
心の拠り所となっていた風景のある地と、
信念や裏切りや、
欲望や野心が渦巻く虚々実々の果てに辿り着いた地と。
民衆と統治者というか。
家庭と仕事というか。
日常と非日常というか。
久能山と日光というか。
海と山というか。
なんと言うか......そんな感覚。
幼い時と晩年の時。
その両時代。
ここに訪れた家康さんが久能山の上でどんなことを思っていたのか......
そんなことが幾つか心に浮かんで、消えて、
浮かんで、消えて......
それが僕の感じた久能山東照宮なのです。
地元名産のイチゴをたぷーーーーーり!
とマゼマゼしたイチゴソフトクリーーム!!
これが、僕の久能山東照宮( ̄ー+ ̄)ニヤリ