S先生の質問
質問1:日本、中国を問わず古典的鍼灸では何故手足に要穴(原・絡・ゲキ・五兪穴等)を配したのか。高貴な身分の人々が本当に手足だけの刺鍼で治療効果を得ていたのだろうか?手足にブスッと刺すのが一番即効性があると考えたのでは。また、一般庶民(江戸日本でいえば下級武士、士農工商、中国でも圧倒的大多数の農民層、農奴)までも体幹への鍼は受け付けなかったのか?
これまでに聞き及んだ回答の要旨は以下の如く。
1)古代・近代では特に儒教の影響があり体を傷付けることは文明人文化人のすること
ではなかった。⇒この要因もあり特に鍼師等の身分は高くなかった。
2)鍼・湯液を主とした古代の近代科学の恩恵を享受できたのは王族・支配階級であり、それゆえに鍼師が高貴な人間の体に直接触ることができず手足で診断し、治療した。
質問2:古代・近代の鍼は現代の鍼とは全く別物で現代の釘のイメージの方が強かったという。すると現代の浅鍼なんて芸当は困難で、ぶすっと刺すしかない。
似田回答:
上記質問は、二十年以上前に発刊されたニーダム著「中国のランセット」針灸の歴史と理論 創元社刊が参考になるでしょう。ここでは本書を久しぶりに手にしつつ、私見を交えて紹介します。
1.手足の要穴治療の時代的必然性
中国における鍼灸の歴史では、18世紀には湯液治療が圧倒的に優位で、鍼灸は針よりも灸が主体だった。そうした彼らも自国の古典文献を調べてみると、針治療の果たした大きな役割を知って驚いた。
一方、これまで、四肢に限らず体幹にも針灸をしていたが、中国政府は儒教的教道徳から、裸をさらすことを禁じ、1822年国立医科大学で針と灸を教えることを禁ずる勅令を下した。これにより体幹への刺針は法律違反となり、必要十分な針灸ができなくなり、針灸医学は衰退の一途をたどった。手足をもって治療しようという発想は、身体に鍼灸することを禁じた制約が生み出した、やむを得ない結果だと言える。また手足しか治療点を選べないという制約は中世以前にはなかったと考えられる。
古代から手首の橈骨動脈の拍動を伺うことで鍼灸の診断に利用したわけだが、チャングムの歴史テレビドラマを観ても、治療点は手足に限定していない。素問霊枢にも、体幹部の刺針施灸に関する記載は普通にみられる。
2.要穴は、なぜ手足に多いか?
手足には要穴が集中しているが、体幹には兪募穴がある。昔の中国人が、この2つを修辞的に対立的概念として捉えたのではないか。
1)手足の要穴:經絡を流れる水は澄んでいる(各臓腑の性質の純粋度が高い)が、流水量は少ない。→川の上流的特性。水量(情報量)自体が少ないので、反応点としては難しいが、臓腑の良否をに関する診断点や治療点として優れている。
2)兪募穴:水量は豊かだが、水は濁っている(いろいろな臓腑の性質が混じっている)。→川の下流的特性。すなわち反応点として出現しやすいものの、診断点としては確実性に乏しい。
臨床にあたっては両者の長所と短所を認識した上で、上手に組み合わせて診療を行ったであろう。
3.素問霊枢誕生時代の鍼灸医療水準について
医学とは、宮廷画家・宮廷音楽家と同じように、王のためにあった。当時の最高水準の医学をもって王を長生させる使命があった。このような知識を平民にも還元することが王の徳でもあった。最優秀の儒医とよばれた医師は王室専用であり、二流以下の医師が平民の治療にあたっていた。
そもそも末端の医師は、金がないので専門書を買うことできず、そればかりか文字も読めなかったので、専門書を借りて読むことさえ困難だった。最下層の医師である鈴医(または串医)は、鈴を鳴らして村々を旅して、わずかな金銭をもらって治療をしていた。そういうレベルの人は古典に基づかず、代々うけついだ医術に基づいた治療をしていた。
4.針の材質
現代に伝わる針の最古の文献は紀元前600年(周代中期)であるが、それは鉄と鋼の技術が栄えるよりも1~2世紀早い。それ以前は青銅で作られ、青銅以前は植物のトゲ、動物の骨、石でつくられていた。ヘン(石+乏) という漢字は、石の針を指す。こうした材料は、皮膚を傷つけることはできても、深く刺すことは不可能だった。針は深く刺す道具ではなく、膿を切開したり、皮膚を傷つけることで筋の早期疲労回復処置(戦場で、早く体力を回復しないことには命取りだった)として行われたものであろう。
もっとも、素問霊枢(前漢後時代、紀元前200年~紀元後200年)頃になると、金属針が使われ、深刺も可能になっていた。金属針による鍼灸治療体系が 素問霊枢と捉えれば、あえて針の材質問題を考える必要はないと思う。