夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

業平卿紀行録7

2008年05月03日 | 芸術・文化

伊勢物語はこの時代に生きた在原業平を主人公にしながら、彼を取り巻くゆかりの深い人たちも多く登場する。とくに清和天皇の女御に上ってからは、もはや業平には手の届かない人となった藤原高子、まだ入内するまえの二条の后がただ人の身分であられた頃に業平と出会う。この二人の恋愛関係が物語の核を作る。彼らのことは当時の人々にもよく知られていたらしく、そのときに詠まれたらしい業平の歌が古今集の中にも詞書きとともに多く取り入れられている。伊勢物語にはそれらの歌の詠まれた背景がさらに詳しく具体的な逸話として記録されている。

奈良の都を離れて新しく平安京に遷都した頃の人々の暮らしも、伊勢物語には象徴的に描かれている。伊勢物語の冒頭の初冠の段には、成人式を終えたばかりの少年の初恋の記憶が物語られる。

領地がそこにあった縁で奈良の京に少年が狩りに訪れたとき、そこで美しい姉妹を垣間見た。そのときの心のときめきを、若紫の乱れ模様に染められた狩衣の裾を切りとり、歌をそこに書いてその姉妹に詠んで贈ったという。

           みちのくの    忍ぶもぢずり    誰ゆゑに
                     みだれそめにし    われならなくに 
 
しかし、この歌は業平のものではなく、古今和歌集にも収められている河原左大臣、源 融の詠んだ歌がもとになっている。この和歌の一部が変えられて物語の中に取り込まれたものだ。源 融は嵯峨天皇の第12子で臣籍降下されて源氏姓をいただき、六条河原院を造営したことで知られている。 

724         陸奥の    しのぶもぢずり    誰ゆゑに
                   乱れむと思ふ    われならなくに    

源 融のこの歌はすでに幾度か恋愛を経験して知っている成熟した男の詠んだ歌である。それが伊勢物語の中の歌のように変えられることによって、異性を異性としてはじめて意識し始めた少年の、思いがけずときめき始めた自分の心に彼自身が驚いている若者の気持ちが詠われている。

伊勢物語には、業平以外の和歌も多く用いられているけれども、その多くは古今和歌集にもおさめられているものだ。905年(延喜5年)醍醐天皇の勅命を受けて紀貫之らは和歌を編纂するために、すでに大伴家持らの手によって成立していた万葉集以降の、そして紀貫之よりも一世代上の六歌仙たちの生きていた時代と、さらに当時の「今」でもある紀貫之たちの生きた時代に至るまでの和歌を収集して古今和歌集を編んでゆく。すでに古今集そのものが四季の移ろいや恋の高揚して行く様子を物語る構成になっていた。

この編纂の過程でおそらく貫之たちは、古今和歌集に載せた業平の歌を並べることによって、ひとりの男を主人公にした物語が作れることに気づいただろう。それに万葉時代の素朴な歌風を残している「読み人知らず」の歌も古今集に残されて多くある。そして、源 融のように名の知られた業平以外の歌、あるいはまた歌人でもある貫之ら自身の詠んだにちがいない歌をも含めて、それらをとりまとめて業平を主人公とする美しい一代記の歌物語を完成させようと思ったにちがいない。

 

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業平卿紀行録6

2008年04月17日 | 芸術・文化


業平卿紀行録6

その後に嵯峨天皇の跡を継いだ異母弟の淳和天皇とその子恒貞親王は、やがて嵯峨天皇の子である仁明天皇と皇位の継承をめぐって対立することになる。淳和天皇の跡を継いだ仁明天皇は、はじめは淳和天皇の子恒貞親王を皇太子としていたが、仁明天皇の女御はそのとき権勢を誇っていた藤原北家の冬嗣の娘順子であり、その兄が良房だった。良房は妹の子すなわち甥の道康親王を仁明天皇の後継に皇位を望むようになる。

このとき淳和上皇とその子恒貞親王に組みしていたのが大伴氏と橘氏であった。嵯峨上皇が亡くなられたあと藤原北家の良房は、恒貞親王を擁立しようとした大伴氏や橘氏たちと争うことになる。

このとき業平の父である阿保親王は、かって自身が連座した薬子の事件に懲りていたのか大伴氏や橘氏に組みせず、藤原良房や嵯峨天皇の后である橘嘉智子に通じたらしい。その結果842年(承和9年)擁立を阻まれた恒貞親王は太子を廃され、その後出家して嵯峨大覚寺を創建したという。これがいわゆる承和の変で、この変の後、藤原良房の妹の順子の子道康親王が文徳天皇として嵯峨天皇の跡を継ぎ、やがて藤原良房は摂政となった。こうして藤原良房は天皇の叔父として外戚となり、大伴氏、橘氏、紀氏などその他の名族を押さえて権勢をかためてゆく。

大化の改新以前は天皇家は蘇我氏との姻戚関係によって蘇我氏の血筋を引くことになったが、大化の改新以後は、先の桓武天皇のお后藤原乙牟漏に見られるように、藤原氏との姻戚関係によって天皇家は藤原氏と祖先を共通にするようになる。

ちなみに、このときの嵯峨天皇は空海と並ぶご三筆のひとりとして知られ、また承和の変に連座して伊豆に流された橘逸勢もこの三筆のひとりに数えられている。そして、この阿保親王の子が在原業平であり、業平は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に仕えた。そして、文徳天皇の子清和天皇の女御が藤原高子である。

古今和歌集の中に六歌仙として取り上げられている在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、小野小町はいずれも仁明天皇、文徳天皇、清和天皇の御代に宮仕えをし、とくに、僧正遍昭は仁明天皇の崩御に殉じて出家したものであり、この仁明天皇は深草の御陵に葬られて、小野小町らともゆかりの深い帝として知られている。

 

 

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業平卿紀行録5

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録5


朝廷では天皇家や藤原氏を取り巻く皇位をめぐる争いははげしく、天智天皇や天武天皇の御代以前も以後にも絶えなかった。また桓武天皇の即位すらすでに皇位をめぐる権力争いの様相を呈していた。今も昔も政治には権力をめぐる暗闘には事欠かないということである。と言うよりも、権力をめぐる闘争こそが政治に他ならない。それが古今東西にわたる普遍的な人間的な真実なのだろう。

桓武天皇が即位された頃にも、勢力を広げた藤原氏内部の間にも、とくに式家と北家との間には皇位の継承をめぐって争いが絶えなかった。式家の祖は三男の宇合、北家の始祖は次男の房前、いずれも藤原不比等を父とする。そして不比等には天智天皇の落胤という説もあるらしい。

百済王を祖先にもち、身分もかならずしも高くはない高野新笠を母としていた桓武天皇が、それにもかかわらず皇位を継承することができたのも、藤原北家に対して勝利をおさめた藤原式家の後援があったためと考えられる。

桓武天皇が即位してからも天皇家の外戚の地位や皇位をめぐる争いは絶えることはない。桓武天皇の第一皇子である平城天皇は、病弱であった上に、しかもご自分の妃の母である藤原薬子を寵愛したゆえに桓武天皇に疎んじられた。そのためもあったのか桓武天皇は弟の早良親王を太子に立てていた。

しかし、この早良親王は長岡京の造宮使として新京建設の責任者であった藤原種継を暗殺した嫌疑で捕らえられ、淡路島へ配流される途上に無実を訴えながら死んでいったという。平城天皇もこの事件に無関係ではなかったらしい。この早良親王の御霊を鎮めるために造営された神社が上京区にある上御霊神社であるという。

そして暗殺された藤原種継の子供が仲成、薬子の兄妹だった。この兄妹は平城天皇の異母弟である伊予親王とその母吉子を謀反の嫌疑で自害させる。また、平城天皇の寵愛を得て、天皇とともに平城京にふたたび遷都を図ろうとして兵を挙げるが、結局は弟帝の嵯峨天皇に阻まれてその望みを遂げることはできず、平城天皇は出家し、仲成は殺され、薬子は毒を飲んで死んでしまう。これが薬子の変と呼ばれる事件である。

この事件に関与した咎で、平城天皇の第一皇子である阿保親王は、810年(弘仁元年)に大宰権帥に左遷される。また、第三皇子の高岳親王は皇太子を廃され、出家して弘法大師の弟子になる。この親王は仏教の真理を求めて入唐し、さらに天竺にまで赴こうとして消息がわからなくなったという。

この嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にもって生まれたのが在原業平だった。その血脈から言えば業平は嵯峨天皇の第二皇子であった仁明天皇やその子文徳天皇に劣っていたわけではない。むしろ桓武天皇につながる天皇家の嫡流に属していたといえる。しかし父祖たちの事跡が業平の生涯に深く影を落としていることを思うと、個人が引き継がざるを得ない宿命というものを考えざるを得ない。

嵯峨天皇との政争に敗れた平城天皇や阿保親王を祖父や父にいただいたがゆえにこそ、当時の権勢家藤原一族からは遠く、権力の中枢からは外れざるを得なかった。おそらくそうした鬱屈した思いが、業平の生涯に特別な色相を添えることになったにちがいない。

 


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業平卿紀行録4

2008年04月16日 | 芸術・文化

業平卿紀行録4


その後中臣の鎌足は、娘たちを天皇家の後宮に送り、天皇家の外戚となることによって権力を確立していったのであるが、これは彼らが滅ぼした蘇我氏の一族が勢力を強めたのと同じやり方だった。ここではこの歴史的な事件の背景、その経済的なあるいは政治的な動機などについては、深く論じることはできない。ただこうした政治的な事件をきっかけにして、今日的な用語で言えば、天皇を中心とした天皇全体主義とでもいうべき政治経済体制が確立されてゆくことになったのは事実のようで、それまでにも中国や朝鮮から多くの文物を手に入れてはいたが、遣唐使などの派遣も制度化されて、中国の国家体制に倣って、日本における律令国家体制がさらに整備されてゆく。

桓武天皇のお后であった藤原乙牟漏の曾祖父がこの中臣鎌子、すなわち藤原鎌足である。この若くして亡くなられた美しい后の父は藤原良継、祖父は藤原不比等である。こうして桓武天皇のお后であるこの藤原乙牟漏に生まれた子供が後の平城天皇と嵯峨天皇および高志内親王である。

この平城天皇は幼児期をそこで過ごしたためだったのか、父の桓武天皇が長岡京、平安京と遷都した後も、奈良の都を恋しく思ったのだろうか、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後にも、上皇となって旧都の平城京に戻りそこに住んだ。そして、新しい都平安京に住む弟帝の嵯峨天皇から復権を企て、ふたたび奈良の京、平城京に遷都しようとして平城上皇が弟帝と争った事件が薬子の乱であった。

こうしてみると、ふだん散歩の途中にも、その前をただ何思うこともなく通り過ぎていた后藤原乙牟漏の高畠陵を思い出すとき感慨深いものがある。歴史を知るということはこういうことなのかも知れない。「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と『続日本紀』に記され、わずか三十一歳の若さでなくなったこの后の残した二人の兄弟、安殿親王、神野親王がその後に遷都をめぐって地位を争うようになることなど、このお后のご生前には知るよしもなかっただろう。

 



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業平卿紀行録3

2008年04月15日 | 芸術・文化

業平卿紀行録3

 

一昨年の秋に、この十輪寺からもさほど遠くない大原野神社を訪れたときには、昔に読んだことのある伊勢物語をあらためて取り出したり源氏物語のことを思い出したりして少し調べてみた。そして、この洛西地域一帯が、とくに大原野と呼ばれるあたりは伊勢物語や源氏物語などにもゆかりの深いところであることもわかった。また、比叡山に延暦寺を創建した最澄や高野山の弘法大師空海が入唐したのも、業平のまだ生きていた頃と同じ時代であることもわかった。

平城京から長岡京、さらに平安京へと遷都の繰り返されるこの激動する時代の背景は調べてみるとなかなか面白く、学生時代に学んだ日本史が本当に通り一遍のもので「歴史を学ぶ」ということからははなはだ遠かったことが悔やまれた。

しかし後悔は先に立たずで、これをきっかけに自分なりに少しでも日本史のおさらいをしておくことにした。そうすれば、これからも歴史的な遺跡を見ても視点も定まり、またそれらを観る眼も違ってくると思う。これから歴史を考える上で必要な前提になる。

日本の古代史で大きな歴史的な転換点となったのは、大化の改新である。大化の改新を拠点としてその後の日本史の基礎が据えられたともいえるからである。この歴史的な事件のきっかけになったのは西暦645年に起きた「乙巳の変」だった。

ときの中大兄皇子とその家臣である中臣鎌子の二人は、当時の政権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我一族を滅ぼし、それに取って代わってそれぞれ天智天皇、藤原鎌足として権力の中枢に上り、改新の詔を発して、あらためて帝道を唯一のものとして天皇制を確立した。また、帝を補佐する臣下の筆頭として藤原氏の地位を確立することによって、その後の政治体制の基礎を築いたからである。

 



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小野小町7

2008年04月01日 | 芸術・文化

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 

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小野小町6

2008年04月01日 | 芸術・文化

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 

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小野小町5

2008年04月01日 | 芸術・文化

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば

 

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小野小町3

2008年03月29日 | 芸術・文化

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 

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小野小町2

2008年03月28日 | 芸術・文化

しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの                                  足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 

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小野小町

2008年03月27日 | 芸術・文化

小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということすらも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

     文屋のやすひでが三河の掾(ぞう)になりて、            

    「あがたみにはえいでたゝじや」と、いひやれりける返り事によめる

                                           小野小町

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                                              (歌番号は「国歌大観」による)

 

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音楽と詩

2008年02月19日 | 芸術・文化

音楽と詩

音楽には色彩も形象もない。絵画には視覚でとらえる対象がまだ残されているけれど、音楽においてはもはや視覚は役に立たない。物質性をもたないこの「音」をとらえるには聴覚しかない。だから音楽は絵画よりもさらに抽象的で観念的である。そして、その抽象性、観念性のゆえに、音楽は私たちのもっとも奥深い心の内面に入り込んでくる。

音楽それ自体は一つの抽象的な「話し言葉」にもたとえることが出来る。愛する人の話言葉のように心に響いてくる。それはカンデンスキーやミロの抽象画が「書き言葉」としてその印象が私たちの意識に伝わってくるのに似ている。しかし音楽は抽象絵画より以上に、そこから伝わる色彩も形象も抽象的である。ただその印象は視覚からではなく、聴覚を通じて心に達するゆえにその色彩も形象も観念的であり、絵画のように客観的な物質性をもたない。絵画の世界においても印象派からピカソ、ブラック、さらにミロやカンデンスキーへと進むにつれて、次第に具象性を失っていったが、それでも絵画にあってはまだ色彩と形象が残されている。

とはいえ、こうした抽象的な音楽であっても、器楽音だけで純粋に構成されるソナタや組曲や交響曲と違って、アリアなどの声楽曲はそこに言葉が伴われるだけ、具体的でわかりやすい。

話し言葉ももともと「音」によって伝えられるから、言葉には本来的に音楽性が含まれているけれども、ただ言葉には人間のコミュニケーション手段として、意味が分かちがたく結びついている。だから、単なる嘆きや叫声の段階から言葉がさらに表象や意味(概念)と結びつけられるとき、抽象的な世界である言語の世界も、再び、具体性を獲得してゆく。そのもっとも洗練された姿が「詩」であることは言うまでもないが、この詩が音楽と結びついたとき、音楽による感情表現はより具体的な明確な輪郭をもって私たちの意識に伝えることができる。

そして、単なる感情の洗練や浄化の段階からさらに進んで高まると、何らかの思想や理念を作曲家や詩人は伝えようとする。ソナタやパルティータなど純粋な器楽曲と比べて、カンタータなどの声楽曲は言語表現をともなうだけ、その音楽の表象や思想をより具体的に把握しやすい。

先に取り上げたエマ・シャプランの歌う「VIDE MARIA」などの曲も、音楽の中により具体的な言語が入り込んでくるために、その抽象性はよほど失われ、具体的により表象的に音楽のテーマである感情や思想を把握しやすくなっている。

しかし、その歌曲が外国のものであって、しかもその言葉を解することが出来なければ、再びその音楽からは具象性は失われてしまう。外国語もその意味を解することが出来なければ、その声は私たちの耳には、あたかも一つの器楽音楽のように響いてくる。

とはいえ実際に私たちが日常聴いている海外の多くの歌曲についても、その歌詞の意味内容がわからないとしても音楽鑑賞には本質的には差しつかえはない。たとえ器楽や音声によって伝えられたその具体的な意味がわからなくとも、私たちは十分に楽しむことは出来るし、さまざまの喜怒哀楽の感情は浄化されて何らかのカタルシスをもたらしてくれる。それは音楽が言葉よりもさらに根元的で感情的な言語であるからだ。

「VIDE MARIA」でもシャプランが歌っている言語はイタリア語らしく、私には全く経験がなかったので聴いても意味がわからなかった。時折「マリア」とか「マドンナ」とか、耳にしたことのある固有名詞がいくつかわかるくらいで、歌われているその詩の内容はまったくわからない。

十分に歌曲自体は楽しめたけれども、同じ歌曲で誰かが映像を編集し、歌詞を英訳して投稿したものが同じYOUTUBEに見つかった。それを見てこの歌で歌われているらしい意味内容を何とか理解することができたけれど、イタリア語はからきしわからないから、この「英詩」が原詩をどれだけ忠実に訳し出しているのかもわからない。

それでも、この歌の英訳らしきものを手がかりにこの歌曲の原意をたどろうと思いついた。イタリア語から英語に翻訳するのは、それらはインド・ヨーロッパ語族として同じ語系に属していて、語源や語順を本質的に同じにしているし、かつ、民族的にも近接しているから、日本語に翻訳するよりも遙かに容易で、原作に忠実に訳しやすいように思われる。

ただ日本の多くの歌謡曲をみてもわかるように、歌曲においては、そこで歌われる詩自体は必ずしも優れている必要はない。むしろ、そこでは曲に一致していることが重要であって、詩としての洗練度はあまり問われない。

詩の内容は、愛することの悩みが歌われているらしい。こうした感情は万国共通で普遍的であるからこそ、外国産のこうした歌曲も私たちの共感の呼ぶのだろうし、そこに人類としての一体感も感じることもできる。

冬の野原が詩の舞台であるようで、そこで恋に悩む娘がマリアに祈る内容になっている。いかにもカトリックの国のイタリアにふさわしい。言語には民族や国民の固有の伝統や宗教の感情が分かちがたく結びついて表現されているから、そうした伝統や宗教的感情の異なる言語には翻訳するのはむずかしい。

英訳詞は誰が訳されたのかはもちろんわからないが、簡潔な力強い語句で、深い情感を現わしている。韻などは踏まれてはいないけれども、英語の詩的表現の情感の深さ、豊かさの一端を知ることはできる。

その後、ネットで原詩を探してみると見つかった。原文はイタリア語であるらしい。ドイツ語や英語なら何とかほんの少しぐらいなら意味をとれるけれども、イタリア語については全くだめである。誰かこの言語に堪能な人に訳し出していただければうれしい。

  Vedi Maria

L'aurora, a ferir nel volto,
Serena, fra le fronde, viemme
Celato in un aspro verno
Tu viso, il sdego lo diemme

Silentio, augei d'horrore !
Or grido e pur non ô lingua...
Silentio, 'l amor mi distrugge,
Il mio sol si perde,
Guerra, non ô da far...

Vedi Maria
Vedi Maria
Ardenda in verno,
Tenir le, vorrei,
Il carro stellato !
Madonna...

In pregion, or m'â gelosia
Veggio, senza occhi miei
Il canto, ormai non mi sferra E, nuda, scalzo fra gli stecchi

Aspecto, ne pur pace trovo
E spesso, bramo di perir
Aitarme, col tan' dolce spirto
Ond'io non posso E non posso vivir...

Vedi Maria
Vedi Maria ( etc... )

Che è s'amor non è ?
Che è s'amor non è ?

Vedi Maria...
Vedi Maria...
Madonna, soccorri mi
 
 

 

 

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Vedi Maria(見て、マリア)

2008年02月18日 | 芸術・文化

Vedi   Maria(見て、マリア)       Vedi   Maria  (Emma Shapplin

小枝の間から、                                    Between  the   branches  
飛び降りてきて私の顔をぶった。            Down  just   hit   my  face
そして、あなたは怒りをあらわにする。        And  anger  shows  me  yours
凍てつき、乾ききった冬。              frozen  in an   arid  winter
  静けさ。                             Silence
いやな小鳥たち。                      Birds  of  horror
私は口もきけずに叫んだ。                 I  shout  with  no  tongue
  静けさ。                         Silence
愛は私をうち砕き、                     Love  destroys  me
私のお日様もどこかに消えてしまう。        And my sun lost it's  way
だけど、私には戦いを挑む気持ちもない。 But  I  have  no  wish  to  wage  war
見て、マリア。                          See  Maria
見て、マリア。                          See  Maria
私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And   I    would   like  to  stop
駆けめぐる馭車座の星々を。              The  chariot  of   stars
聖母さま。                              Madonna
                      
嫉妬は私を虜にし、             Jealousy   is  holding  me  prisoner
私は眼に見ることもなく見る               And   I  see  without  eyes
この歌はもうこれ以上私を傷つけない。       This  song  hurts  me  no  more
私は裸足で走る。                       And  I  run  barefoot
野イバラの間を駆け抜けて。               among  the  brambles
私は待つけれど、安らぎを見つけられない。   I  wait  and  cannot  find  pease
ああ、どうすれば私は消えてしまえるの。       Oh  how  I  wish   could  perish
            
私はいくども叫ぶけれど、                    I  often    shaut
私は生きることも出来なければ死ぬことも出来ない。But  I  can  neither  live with
このような優しいマリアさまなくして。  Nor  live  without   Such  a  gentle  ghost
                                    
見て、マリア                           See  maria
見て、マリア                                                            See  maria

私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And  I  would  like  to stop
駆け巡る馭車座の星々を。               The  chariot  of   stars     
聖母さま。                              Madonna 

これは何?もし、これが愛でないとしたら、      What  is  this ,  if  not  love
これは何?もし、これが愛でないとしたら。      What  is  this ,  if  not  love

見て、マリア。                            See  maria
見て、マリア。                                                               See  maria
聖母さま、来て、私を救って。            Madonna     come   save  me !

 

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ルイス・フロイス

2008年01月30日 | 芸術・文化

 

ルイス・フロイス

昨年の秋頃から関わり始めた畑仕事の仲間から、京都府庁で展示会をやっているという話は耳に挟んでいた。しかし、忙しさにかまけてすっかりそのことを忘れていたところ、昨日、リーダーのHさんより電話があり、行ってみられてはどうかというお誘いを受けた。それで、初めて、その展示会が今月末までであることを思い出した。何とか明日中に行くことにしますと返事はしたが、もともと興味がなかった訳ではなく、行くつもりにはしていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。

その展示会は京都府庁の旧庁舎の中で行われていた。人間の原点としての農業とその意義を少しでも伝えようとしたものである。利益と効率を第一におかない農業を目指そうとするものである。それはまた、私たちの生活や人生を本当に豊かにするものとしての農業が目指されている。自然は奥深く苦しいが、美しくまた楽しくもあることが教えられる。

現在の京都府庁の一角に残されたこの旧庁舎本館に一歩足を踏み入れたとき、この洋館造りの建築物の気品に打たれ、その風格に驚いた。重要有形文化財にも指定されているらしい。そこに感じたのは何よりも、「西洋」である。この建築物に足を踏み入れて思ったのは、日本人が初めて出逢って目に映じ感じたヨーロッパの姿である。また江戸期の文化の水準もよくわかる。この府庁旧本館は明治37年(1904年)に竣工されたそうである。だから、すでに百年以上の歳月を閲しているが、このような建築物一つをみても、明治人のヨーロッパ文化、文明に対するその摂取と消化のレベルの高さがよくわかる。昭和や平成の御代の日本人よりもよほど、西洋を奥深く理解していたのではないだろうか。西洋建築といっても、表面的で軽佻浮薄な植民地文化の産物ではない。

以前にも府庁には何度も来たことはあり、確かこの旧本館にも訪れているはずだが、私の方にそうした問題意識もなかったために、文化としての建築について、記憶をとどめることもほとんどなかったのだろう。デジタルカメラに記録しておこうと思ったけれど、あいにく電池切れで動かなかった。

(ネットでその面影は見られます。京都旧庁舎http://www.chigirie.i-ml.com/blog-rutiler/2007/04/post_67.html)

久しぶりに京都の「官庁街」にきて、少し懐かしさが募ったのか時間もあったので、若い日に多くの時間を過ごした「土地」と「街」をふたたび訪れてみようと思った。しかし、わざと烏丸通りを北上することなく、少し裏通りの智恵光院通りを北にあがった。とくに洛北の国際会議場とその前にある宝ヶ池プリンスホテル、今は改名されているらしいが、を目的にしようと思った。

このホテルはかって西武鉄道の総帥として権勢を誇っていた堤義明氏が、国際会議場の受け皿となる宿泊施設として、肝いりで建設したものである。村野藤吾という今はなき建築家が設計したヨーロッパの城館をイメージしたホテルである。確かこれが遺作となったはずだ。もし京都に来られて機会があるならぜひ一度宿泊されるのもよい思い出になるかもしれない。

考えればいったい何年ぶりだろうか。話にもならないほど近くに住んでいながら訪れることもなかったせいか、それにしても、紫明通り、出雲路橋からその経路をすぐに思い出せない。鴨川沿いの立派な桜並木は今はすっかり葉を落としているが、そぎ落とされた殺風景なその枝振りの偉容だけでもさすがだ。

とにかく北へと思って走るが、かすかに記憶にある宝ヶ池に通じる道が見あたらない。それで、二度ほども上賀茂神社の裏手の清流が豊かに流れる閑静な町中を間違って走ることになった。そして道を探している間にも、岩倉あたりに出てしまう。この土地も思えば懐かしいところである。学生時代に友人が三宅八幡の駅近くに下宿していた関係でよく訪れたものだ。それも昔のことである。後年になって知り合った女性も岩倉に住んでいて、その関係でよく来たことがある。だから実相院や病院のある一帯もよくうろついていたのでそれなりに土地勘はあって、迷うという感じではなかったものの、探そうとする道になかなか出くわさない。その街の面影は大きく変貌しているとはいえ、ただ懐かしい。

とうとう、柊の別れあたりにまで出てしまう。さすがに方角を大きく間違えてしまったので引き返す。

深泥が池の畔まで出る。この池の印象に残っているのは夏の姿だったが、今はその周辺はすっかり冬枯れの景色になっていて、池の中央の砂州に枯れた葦が群生しているだけだった。水辺でおしどりがくちばしを水中に入れ餌を漁っている。この池を右手に見下ろしながら北に走ってようやく、プリンスホテルの銅さびた屋根が冬の寂れた木立の上に眺められた。

すっかり北に走り過ぎてしまっていたようである。それでホテルの姿を見失わないように南方に戻り宝ヶ池通りに入ってようやく、左手に国際会議場が、右手にプリンスホテルが見えた。この会議場ではかって環境問題が話し合われ、今ではほとんど有名無実になってしまった京都議定書の議決されたところである。余裕があればホテルのロビーでお茶でも飲んで時間を過ごしてもよかったが、それはまたの機会に譲って、まっすぐ市街地の方へ戻ることにした。

トンネルを抜けて少し走ると昔と同じように狐坂があるはずだったが、峠に出てみると、そこにも高架道路が造られ、その高みから市街地が見下ろせるようになっていた。昔は宝ヶ池に出るには、木々のうっそうと繁った山間の狐坂を抜けるしかなかった。デンマークのキルケゴールという詩人哲学者が『反復』という著書の中で、「人生の反復」を試みようとしたが、彼と同じように、「反復」の不可能を実感するしかないようだ。

北山通りに出る。このあたりも変貌著しいけれど、それでも骨格はそのままで、やはり懐かしい。この通りの植物園の傍らに府立総合資料館がある。この資料館へは昔、結婚してまだ間もない頃、弁当を作ってもらって洛西から通ったことがある。長女の名付けもこの資料館で考えた。北山通りを挟んだ北側の向いに喫茶店があった。明るい陽差しの良く入る瀟洒な店だったが今はない。

資料館の前をいったん通り過ぎたが、時間にまだ余裕のあることに気づいて、懐かしさもあり久しぶりに訪れてみる気になって引き返した。

平日でもあったせいか、持参した弁当でかって昼食をとった休憩室も、今は相席しなくともすむほどには空いていた。そこの自動販売機のコーヒーで一息ついた後、館内に貼られたポスターや並べられてあるパンフレットなどを丹念に読みながら見た。洛西に戻ってきながら、この洛北までほとんど足を運ぶ機会を失っていた間に、コンサートホールなども造られ、三月一日には、バッハの「ヨハネ受難曲」などの演奏会の開かれることも知った。三条の文化博物館では今、「川端康成と東山魁夷」の展覧会も開かれているらしい。それに今年は源氏物語の千年紀だとかで、何かと催し物も予定されているようだ。もう少し文化的な体験を増やして生活に潤いを持たせてもいいと思う。

階段をのぼって閲覧室に入る。以前にはバッグなどの私有物の持ち込み禁止などの注意書きがあったのに、見あたらないので入り口近くに座っていた案内の人に尋ねると、今は持ち込みは許されているそうである。かなり以前からだという。すっかり浦島太郎のような気持ちになる。図書室の利用者が信用されるようになっただけ、進歩であるには違いない。

館内の座席にはまだ十分に余裕があった。その一つの机を確保し、ダウンジャケットをそこに脱いで、書架の間をゆっくり巡って歩いた。本当に久しぶりである。それが何か失われた時間のように感じさせ、永遠に戻ることのない時間と土地の移動を思った。

ついでだから何か摘み読みでもして行こうと思う。何が好いだろうか。こんな時には実用書は十分だが、かといって、たくさんに並んでいるそれぞれの地域の風土史や地域史も手に取る気にならない。

たまたま、定家の『明月記』があった。一冊は漢文の原文で一冊はそれを読み下した本である。また、その近くにルイス・フロイスの『日本史』の翻訳があった。この三冊を抱えて座席に戻る。

九百年ほど前に書かれた『明月記』はあまり見なかった。フロイス『日本史』の翻訳の方は、時間の許す限り読んだ。フロイスは織田信長の時代に日本に来たカトリックの宣教師である。彼の生きた時代からすでに四百年以上の歳月を閲している。彼はインドのカルカッタ、ゴアを経て日本の長崎の横瀬浦から平戸を経て、当時の日本の都であったこの京都にも足を踏み入れている。今でも彼の足跡をたどることができるのだろうか。フロイスは自分の生きた証として当時の日本の世情を克明に記録したが、その量は膨大にのぼるという。彼の書いた原稿自体は教会の焼失とともに失われたらしいが、その写本が残されたということである。それを四百年後の今日、丹念に訳した翻訳者の労役と執念には頭が下がる。

フロイスの生きた時代からほぼ五百年を経て、今私たちがこうして生きている。そして、私たちの死後五百年の世界に生きる人々はどのような人々なのだろうか。そんなことを考えながら、閉館時間にまだ少し時間を残しながら、この懐かしい資料館を後にした。

 

 

 

 
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山本常朝 ――『葉隠』の死生観

2007年12月11日 | 芸術・文化

山本常朝 ――『葉隠』の死生観

人間は文化的な生物である。だから、その成育の環境と伝統のなかで「教育」を受けてはじめて人間になる。教育や伝統などの文化的な環境が人格形成に決定的な影響を及ぼす。人は誰でも、両親を第一として、故人であれ、また海外であれ、青年の頃から多くの人格に接することを通じて人格形成を行う。そして、多くの人がそうであるように、私もまた、様々な出来事や人格から何らかの影響を受けながら、意識的にかあるいは無自覚的に自分の人格を形成してきたといえる。

その中にも、もちろんその影響の強弱はある。人格の中にも、強い影響力、感化力を持つものとさほどでもないものがある。

最近でこそ特に関わることもないけれども、二十歳前後の青年時代に触れる機会があって、かなり強い印象を残した人格に山本常朝という人間がいる。常朝とは、いうまでもなく『葉隠』の語り部である。私はそれを当時刊行されていた「江戸史料叢書」の中の上下本として読んだ。

『葉隠』といい山本常朝といえば、その武士道の主張で戦前の右翼思想家のイデオロギー形成に寄与したことから、左翼からは批判的な眼で見られることも多いようである。けれども、それは山本常朝自身の責任ではない。常朝自身の考え方には、右翼とか左翼とかいった狭い範疇を越えた普遍的な真実がある。


常朝の思想の核心は、武士の身分として「死の決意をもって主君に奉じる」ということにあった。武士の生き方としての死の覚悟である。彼の人生観、死生観はそれに貫かれている。

「毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく家職を仕果たすべき也」と語っている。
ある意味では彼は最高の「モラリスト」であるとも言え、少なくとも江戸、明治期には、我が国にこうした人格は少なくなかったのだろうと思われる。そして、まさにそれと対局にあるのが、戦後民主主義の人間群像なのだろう。

常朝自身は、また、それなりに風流人であったようである。彼の言葉の節々にも、詩人的な風格が香ってくる。彼自身は仏道修行や風雅の道は隠居や出家者の従事することとして、無学文盲を称して、奉公一篇に精を出したが、詩人としての気質に不足はなかった。「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候」というのもそうである。彼自身がきわめて聡明であったことはその発言からもわかるが、また、なかなか美男子であったようだ。しかし、器量がよく、利発者であっても、それが表に出るようでは人が受け取らぬ事をよく知っていた。それで毎日、常朝は鏡に自分の顔を映して自分の器量を押さえたのである。 

                    
江戸と今日の平成の御世では大きく異なるのは言うまでもないが、それでも本質的に共通する部分もある。そこに、『葉隠』が今日にも普遍的に通用する真理を語っている一面も少なくない。たとえば彼は「武篇は気違ひにならねばされぬ者也」と言う。

現代の私たちが、ふつうに暮らしていても、特に男子には日常的にその誇りを試される場合が多い。その誇りを守る必要があれば、いつでも狂い死にせよ、と常朝は教えるのである。

だから、その配偶者は、いつ何時でも彼女の夫が街の路頭で狂い死にすることがあったとしても、その死には何らかの事情があることを思う必要がある。人生の伴侶として、その覚悟を求められるだろう。昔の武士の妻たちは皆そのことは心得ていたはずである。

また、常朝は次のような言葉も残している。「人間一生誠に僅かの事也。好ひた事をして暮らすべき也。夢の間の世の中にすかぬ事計りして、苦を見て暮らすは愚か成る事也。此の事はわろく聞きて害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手也。」

 

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