夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」

          2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、この「寺沢学派」とも称することできる許萬元と牧野紀之の二人によって、このマルクス主義の立場からは行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど二人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままであると思います。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

 

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