夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

群衆と国民

2008年08月02日 | 国家論

 

戦後の日本国憲法の制定の過程で、民主主義とか国民主権という観念も普及していった。その過程でこれらの言葉は、流行語のように、また時には「反動勢力」を黙らせるために、「黄門さまの印籠」のように遣われたこともあるようだ。

テレビなどでジャーナリストや政治家が「国民」とか「国民主権」とかを口にするとき、その多くの場合、彼ら話し手の考えている頭の中の、その言葉の実体といえば、それぞれが勝手にイメージした曖昧で漠然とした観念である場合が多い。それは「国民」と呼ばれてはいるけれども、多くの場合曖昧で抽象的な単なる表象にすぎず、その「国民」なるものは「群衆」と区別がつかない。

しかし、それでは「国民」とは実体のない陽炎のようなものか。
そうではないと思う。それは私たちが海外に出るとよくわかる。パスポートなくして海外に出ることができないように、諸外国との関係においてはじめて個人は「日本国籍」を持った「日本国民」の一人として、そのアイデンティティー(身分証明)が明らかにされるのである。外国との関係においてはじめて各個人は、日本国を日本国として自覚し、一個の有機的な組織体としての国家の一員として、「国民」として自己を自覚するようになる。

要するに「国民」という観念は、国家と切り離しては考えることのできないできない概念なのである。またパスポートに菊花紋章の刻印があるように、少なくとも日本国憲法の場合、天皇や皇室との関係が自覚されている。たとい、その位置づけは「象徴」として哲学的には極めていい加減な規定しか行われていないとしても。そして、この関係を自覚するとき、そのときはじめて各個人は、群衆の一人としてではなく、「日本国民」の一人として自己を自覚するようになる。国家意識の希薄な戦後の日本人が、倫理なき群衆の一人としてしか自己を自覚できないでいるのもやむをえないといえる。

 

 

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