hisikaiさんは、ここしばらく「よしわら」と題して、日本の戦前の公娼制度の象徴としての「吉原」を取りあげられています。
これまでの論考でも明らかなように、いわゆる「戦後民主主義」については私は多くの点で低く見ているのに対して、戦前の「大日本帝国憲法」下の日本についてはかなり肯定的に評価してきました。そして、戦後教育の産物であるいわゆる「団塊の世代」やその後継世代については、民族がその形而上的な精神を喪失してしまっていることや、倫理的な意識の希薄さという点において、平安、鎌倉、室町、江戸時代などの過去の日本の封建時代の「品格」にすら及ばないのではないかと思っています。これは私がかならずしも「民主主義」を評価していないためかもしれません。
ただ、それでも私が戦後の日本を評価する点があるとすれば、太平洋戦争後には、この「吉原」に代表される公娼制度がなくなったことがあります。また、この制度の背景にあった貧困問題の根源である小作人制度が「農地改革」によって農村からなくなったことだと思います。
ただ残念なことは、日本の敗戦によってGHQの指導のもとでこれらの政治的な改革が実行されたことです。日本人は民族として公娼制度などの悪習を主体的に廃止する能力を持っていませんでした。そのために今日も風俗産業などにおける女性の人身売買などは根強く残っています。
あえて誤解を恐れずにいえば、「吉原」などの公娼制度を廃止するためなら、日本の敗戦と引き換えにしてもよかったくらいに思っています。それほど、私にとっては「よしわら」の公娼制度は憎むべき対象です。そして残念に思うのは、hishikaiさんの論考においては、この旧悪弊に満ちた「よしはら」を、文学的に歴史的に叙情的に懐古的に振り返られるだけで、この公娼制度の産物に対するhishikaiさんの憎悪がほとんど見られないのを私は悲しいと思います。
おそらくこうした風俗文化の問題の背景には、日本人の民族としての宗教の性格が深く関わっていると思います。日本の伝統宗教の中にはこれまでモーゼの宗教の影響の痕跡すら見られなかったこともあると思います。日本人がモーゼやイエスの宗教に改宗して文化や社会の質を変えるまでは、いずれにしても問題の根本的な解決を期待することはできないのではないかとも思います。