夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

8月26日(月)のTW:世界史と理性

2013年08月27日 | 歴史

 

2013年08月27日 | ツイツター

 

太陽系の運動は不変の法則にしたがって行われている。すなわち、この法則は太陽系の理性である。しかし、太陽も、この 法則に従って太陽の周りを回っている遊星も、この法則についての意識を持ってはいない。それで自然の中に理性があるとか、自然が一般的法則によっていつも 支配されているとかいう a

 

思想には、我々は一向に驚かない。我々はこのような思想には慣れているので、それを別に大したこととも思わない。にも かかわらず、私がこの思想の歴史的ないきさつを述べるのは、このように今日の我々には陳腐に見える思想でも、必ずしも世に行われていた訳ではなく、した がってこのような思想の出現は

 

むしろ人間精神の歴史に一時期を画したものだという歴史の教訓に注意を促すためである。アリストテレスは、この思想の 創始者アナクサゴラスについて言っている。彼は酔いどれたちのなかで一人素面の人のように見えた、と。アナクサゴラスのこの思想はソクラテスに受け継がれ た。

 

そしてこの思想は一切の出来事を偶然に帰したエピクロスを除けば、およそ哲学における支配的な思想となった。プラトン はソクラテスに言わせている。「私はこの思想を知って歓んだ。そして理性に従って自然を解釈し、特殊なもののなかには特殊な目的を、全体の中には一般的な 目的を指示してくれる

 

一人の教師を見出したと信じた。私はどんなことがあってもこの期待を捨てまいと思った。けれども、私がアナクサゴラス 自身の書いたものに熱心に当たってみて、彼が理性の代わりにただ空気だとか、エーテルだとか、水などといった、外的原因だけを挙げているのを知って、どん なに失望したことか」と。

 

すなわち、ソクラテスがアナクサゴラスの原理に見出した不満が、原理そのものにあるのではなくて、むしろ具体的自然に 対する原理の適用上の欠陥、つまり、自然がこの原理に基づいて理解され、把握されておらないこと、一般にその原理が抽象的に見られているに過ぎないという こと、

 

自然がこの原理の発展として、理性に基づいてそこから産み出された一つの組織として捉えられていないという点にあることが分かる。【A:原理としての理性の哲学的考察】

 

次に問題になるのが、理性が世界を支配しているというこの思想の型態が、進んで適用されて我々に周知の思想に関連して いる点である。――すなわち、世界が単に外的な偶然の原因に委ねられているものではなくて、むしろ摂理が世界を支配しているという宗教的真理の型態をとる 場合である。(s36 )

 

ところで、ある摂理が、それも神の摂理が世界の諸々の出来事を支配するという真理は、理性が世界を支配しているという 先の原理に対応している。なぜなら、神の摂理とは、その目的、すなわち世界の絶対的な、理性的な究極目的を実現するところの無限の力という面から見た智慧 であり、

 

理性はまったくに自由に自分自身を規定するところの思考だからである。けれども、ここでふたたびアナクサゴラスの原則 に対するソクラテスの不満と同じ形で、この信仰と我々の原理との差異、とういうよりもむしろ対立が現れてくる。この信仰もまた同様に漠然としたものであ り、摂理一般への信仰と

 

呼ばれるものであり、それは進んでさらに規定されたものとなり、全体への適用、すなわち世界史への全行程への適用とな るところまで行かない。しかし、歴史を説明すると言うことは、人間の情熱、その天才、その活動の力を明らかにすることを意味する。そしてこのような摂理の 規定性(歴史の実現過程)は

 

通常、摂理の計画と呼ばれる。けれども、この計画は我々の眼には隠されているとされ、これを認識しようとすることは僭 越なこととされている。理性がどういう形で現実の中に啓示されているのかについてのアナクサゴラスの無知は無邪気なものだった。彼を始め一般にギリシャに おいては、

 

思想の意識はまだ幼稚だった。彼はこの一般的な原理を具体的なものに適用し、具体的なものをその原理から認識することは出来なかったのである。ソクラテスがはじめてこの点で一歩を進め、具体者と一般者との結合を遂行した。従ってアナクサゴラスは、

 

必ずしもこのような適用に反対の立場をとったのではない。ところが今いう摂理に対する信仰は、少なくとも一般的には適 用に反対しており、摂理の計画の認識に対して反対している。というのも人々が摂理の存在を認めるのは、特殊な場合だけであって、それは敬虔な心の人が、 個々人の突発的な事故の中に

 

偶然ではなく神意を視るような場合に過ぎないからである。しかし、このような目的はそれ自身限られた狭い範囲のもので あり、単に一個人の特殊な目的に過ぎない。 ところが我々が世界史において問題にするのは、民族という個体であり、国家という全体である。だから単に抽象的な無規定的な信仰に

 

 

かかづらわっているわけにも行かない。むしろ本気に歴史の中における摂理の道程、その諸々の手段、現象を認識することを問題にし、それを上述の一般的な原理に関係づけることを問題にしなければならない。(ibid s 38 )

 

 

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