夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十二節[所有と譲渡]

2020年07月06日 | ヘーゲル『哲学入門』

§12

Ich kann mich meines Eigentums  entäußern und dasselbe kann durch meinen freien Willen an Andere übergehen.

第12節[所有と譲渡]

私は自分の財産を 譲渡 することができる。そして、私の自由な意志によって私の所有を他人に移動することができる。

Erläuterung.

説明

Meine Kräfte und Geschicklichkeiten (※1)sind zwar mein eigenstes Eigentum, aber sie haben auch eine Äußerlichkeit. Nach der abstrakten Bestimmung sind sie schon insofern äußerlich, als ich sie von mir, dem einfachen Ich, unterscheiden kann. Aber auch an sich sind die Kräfte und Geschicklichkeiten einzelne und beschränkte, die nicht mein Wesen selbst ausmachen. Mein Wesen, das an sich allgemeine, ist von diesen besonderen Bestimmungen unterschieden. Endlich sind sie in ihrem Gebrauch  äußerlich. Eben indem ich sie gebrauche, mache ich sie zu einer äußerlichen Form und das durch sie Hervorge­brachte ist irgend ein äußerliches Dasein.

私の能力と熟練はたしかに私自身に固有の資産であるが、しかしまた、それらは外的な側面ももっている。抽象的な規定からすれば、私はそれらを自分から、単純な自我から区別することができるという点ですでに外的なものである。しかし、能力と熟練はそれ自体において個別的でありかつ限定的なものであって、それらは私の本質そのものを構成するものではない。それ自体において普遍的なものである私の本質は、これらの特殊な規定からは区別される。最後に、それらはその使用に際しても外的である。まさに私がそれらを用いることによって、私はそれらに一つの外的な形式を与え、そして、それらを通して作り出されたものは一個の外に存在する或る物である。

Im Gebrauch liegt nicht die Kraft als solche, sondern sie erhält sich, ungeachtet sie sich geäußert und diese ihre Äußerung zu einem von ihr ver­schiedenen Dasein gemacht hat. Diese Äußerung der Kraft ist auch insofern etwas Äußerliches, als sie etwas Beschränktes und Endliches ist. — Insofern etwas mein Eigentum ist, habe ich es zwar mit meinem Willen verbunden, aber diese Verbin­dung ist keine absolute. Denn wäre sie eine solche, so müsste mein Wille seinem Wesen nach in dieser Sache liegen. Sondern ich habe meinen Willen hier nur zu etwas Besonderem gemacht und kann, weil er frei ist, diese Besonderheit wieder aufheben.(※2)

能力それ自体はその使用のうちに存在しているのではない。むしろ能力は自己を外化し、そして、むしろこれらの外化したものを自らとは区別される定在へと作り上げるにもかかわらず、能力は自己を保存している。能力のこの外化は、また、外的な或る物であるという点においては、限界のあるものであり有限のものである。⎯  或る物が私の資産であるかぎりは、たしかに私はそれを私の意志と結びつけてはいるが、しかし、この結合は絶対的なものではない。それがもし絶対的なものであるなら、私の意志はその本質からもこの事物のうちに存在していなければならないことになる。ところがそうではなくて、ここでは私は私の意志をたんに特殊な或る物へと作り上げるにすぎず、そして、私は自由であるから、この特殊性をふたたび止揚することができるのである。


(※1)
Meine Kräfte und Geschicklichkeiten「私の能力と熟練」
人間の能力や熟練は、人間の本質から、すなわち、その人格から切り離されて、外部に特殊な生産物としてそのうちに保存され、また、それは彼の人格とは無関係に他者に譲渡することも可能である。これらは経済学的な概念として、労働と労働力として捉えなおすこともできる。労働は能力や熟練の使用という外的な形式の側面であり、労働力は外的な生産物のうちに保存されている人間の能力や熟練である。

(※2)
この節における人間の能力や熟練についてのヘーゲルの考察は、マルクスの『資本論』などにおいて受け継がれて、さらに具体的に詳細に分析されている。マルクスは人間の労働と労働力の相違を詳細に分析して、商品交換における「使用価値」と「交換価値」の違いとして定式化した。



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