c推理(Der Schluß)
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 17:58
§181
推理は概念と判断との統一である。それは、さまざまの判断形式が単純な同一性へと復帰したものとしては概念であり、概念が同時に実在性のうちに、すなわち概念の様々な規定のうちへ定立されている限りでは判断である。理性的なものは推理であり、
しかもあらゆる理性的なものは推理である。
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:02
普通にも推理は理性的なものの形式とされてはいるが、しかし主観的な形式とされており、その上この形式とその他の理性的な内容、例えば理性的原則、理性的行為、理念、等々との間にはいかなる連関も指示されてはいない。
一般に人々はよく理性について語ったり、理性に訴えたりするが、理性の規定性が何であるか、すなわち、理性とは何であるかということは明らかにせず、まして理性が推理と関係があるということに思い至る者はいない。実際に形式的な推理は、理性的な内容とは全く無関係なような、没理性的な仕方における
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:05
理性的なものではある。しかし、こうした内容が理性的でありうるのは、思考を理性とする規定性と同じ規定性によってのみであるから、それは形式によってのみ理性的でありうる。そしてこの形式がすなわち推理なのである。⎯⎯しかし推理は、本節に示されたように、
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:20
定立された実在的な概念にほかならないから、推理はあらゆる真実なものの本質的な根拠である。そこで今や絶対者の定義は、それが推理であるとうこと、命題として言い表せば、「すべてのものは推理である」ということである。
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:20
※
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:20
現実的なものは理性的であり、それが概念が外的に実在を獲得したものに他ならず、そして、推理とは判断を通じた概念の展開に他ならないから、「すべてのものは推理である」ということになる。
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— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:32
すべてのものは概念であり、概念の定有は概念の諸要素の区別である。すなわち、概念の普遍性は特殊性を通じて自己に外的な実在を与え、これによって、また否定的な自己内反省として、自己を個別とするのである。これを逆に言えば、
現実的なものは特殊を通じて普遍へと高め、そして自己を自己と同一とするところの個別である。
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:32
※
概念(ここでは普遍)が特殊を通じて個別としての外的な実在を得る論理が説明されている。人類(普)⎯民族(特)⎯⎯三郎(個)
⎯⎯現実的なものはひとつのものであるがDas Wirkliche ist Eines、しかし概念の諸要素(普⎯特⎯個)はまた分離してもいる。推理はその諸要素をつなぎ合わせるする円運動であり、これによって現実的なものは一つのものとしてals Eines定立される。
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:40
※
— review (@myenzyklo) 2016年7月3日 - 18:43
個別的な人間としての「私」も「一つのものEines」であり、現実的なものDas Wirklicheとして、その存在には「普⎯特⎯個」の推理を内在させている。
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