夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

§ 280b[概念から存在への移行]

2018年07月11日 | 法の哲学

 

 

§ 280b[概念から存在への移行]

Dieser Übergang vom Begriff der reinen Selbstbestimmung in die Unmittelbarkeit des Seins und damit in die Natürlichkeit ist rein spekulativer Natur ※1, seine Erkenntnis gehört daher der logischen Philosophie an.

純粋な自己規定の概念から存在の直接性へのこの移行は、そして、そこでの自然性への移行は、純粋に思弁的(spekulativer)な本性(自然)であり、その認識はしたがって論理的な哲学に属する。

Es ist übrigens im ganzen derselbe Übergang, welcher als die Natur des Willens überhaupt bekannt und der Prozeß ist, einen Inhalt aus der Subjektivität (als vorgestellten Zweck) in das Dasein zu übersetzen (§ 8).

それは要するに、意志の本性として一般に認識されており、そしてその(意志の)過程であるところのものと全く同じ移行のうちにある。一個の内容は、主観性から(考えられた目的として)そこにあるもの(定在)へと移し替えられるのである。(§8)

Aber die eigentümliche Form der Idee und des Überganges, der hier betrachtet wird, ist das unmittelbare  Umschlagen der reinen Selbstbestimmung des Willens (des einfachen Begriffes selbst) in ein Dieses und natürliches Dasein, ohne die Vermittlung durch einen besonderen Inhalt - (einen Zweck im Handeln).

しかし、理念の本来の形態と、ここに考察されている移行は、意志の純粋な自己規定(単一な概念自体の)の、特殊な内容(行為における一つの目的)を通した媒介なくして、一つの此の物と自然のそこにあるもの(定在)への直接的な転換である。

⎯  Im sogenannten ontologischen  Beweise vom Dasein  Gottes ist es dasselbe Umschlagen des absoluten Begriffes in das Sein,
was die Tiefe der Idee in der neueren Zeit ausgemacht hat, was aber in der neuesten Zeit für das
Unbegreifliche ausgegeben worden ist, - wodurch man denn, weil nur die Einheit des Begriffs und des Daseins (§ 23) die Wahrheit ist, auf das Erkennen der Wahrheit Verzicht geleistet hat.


神の存在のいわゆる存在論的証明において、絶対的な概念が存在に転換することと、それは同じものである。それは近代において理念の深みを構成してきたものであるが、しかし、最近では理解しがたいものにされてしまっている。⎯そうして、概念と定在の統一(§23)のみが真理であるから、そのことによって人は 真理を認識することを放棄してしまうことになった。

Indem das Bewußtsein des Verstandes diese Einheit nicht in sich hat und bei der Trennung der beiden Momente der Wahrheit stehenbleibt, gibt es etwa bei diesem Gegenstande noch einen Glauben an jene Einheit zu.

同時に悟性の意識はこの(概念と定在の)統一を自らのうちにもたず、そして真理の二つの要素を分離することにとどまりつつも、この対象(神の存在)においては、いまだなおいくらかはその統一についての「信仰」をもっている。

 

 ※1
「die  rein   spekulativer   Natur 純粋に思弁的な自然(本性)」とは何か。これは先に述べられている「純粋な自己規定の概念 Begriff   der   reinen Selbstbestimmung」の言い換えとみていいと思う。概念の客観的な存在を自明とするヘーゲルの立場からすれば、その概念が自己を規定して自然的な存在(定在)に至るのは、概念の純粋に思弁的な本性(自然)にほかならない。これは、また、意志の本性 die Natur des Willens  として一般に認識されている事柄と同じでものであるという。

一軒の「家」を建てようとする人間の意志は、その頭脳に青写真として描いた家の「概念」を、木材、セメント、鉄骨といった素材を合成し建築という労働を介して、客観的にそこにある実際の家として存在を実現する。

一方で生命の概念は、たとえば一頭の蝶は純粋に自己を規定する客観的に存在する概念として、みずからを卵、幼虫、蛹、成虫と自己を規定して成長させてゆくとともに体の形や構造を変えていく。その論理的な本性 die  rein   spekulativer   Natur  は、人間の意志が建築によって家の概念を客観的な現実的存在として実現する場合と異ならない。

この事態を認めることができない経験論者にして唯物論者のマルクスなどは、ヘーゲルのこの定式化について「神秘化している」とか「形而上学的な公理に歪曲している」として批判するが、これは筋違いの批判というべきだろう。むしろ、その悟性的な意識は、概念(普遍)とその実現としての定在(個別)との統一についての意識をもたず、それら概念の要素を分離したものとしてしか認識しない。そのことによって活ける生命を殺してしまうのである。

 
 
 

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