§187
— review (@myenzyklo) 2017年7月4日 - 22:51
個人はこの外的国家の市民としては私人であり、私人とは自己自身の利益を自己の目的とするものである。私人の目的は普遍によって媒介され、したがって普遍は私人にとっては手段として現れるので、私人の目的が彼らによって達成されるのは、彼ら自身が自己の知や意欲や行動を普遍的な仕方で
規定し、自己をこのような連関の連鎖の一成員たらしめる限りにおいてのみである。この場合理念の立場からの関心事、それは市民社会の成員の個別性や自然性を、自然必然性を通じて、すなわち欲望の恣意を通じて、知や意欲の形式的自由と形式的普遍性へと高め、彼らの特殊性がもつ主観性を陶冶する
— review (@myenzyklo) 2017年7月4日 - 22:56
過程である。
— review (@myenzyklo) 2017年7月4日 - 23:09
※ヘーゲルはここでアダム・スミスの「見えざる神の手」を念頭に書いている。
【精神の現実性】
精神がその現実性をもつのは、自分自身において自己を分裂し、諸種の自然的な欲望やそれらが持つ外的な必然性の連関の中にあって、自己にこの制限と有限性とを付与し、
かつまさにこれらの制限と有限性とに徹して陶冶されることによって、この制限や有限性を克服し、この制限や有限性において自己に客観的な定在を獲得することによってのみである。(ibid.s 166)
— review (@myenzyklo) 2017年7月4日 - 23:09
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます