しかし、法の理念が実定法の価値尺度としての意味をもつとき、その理念は、すでに実定法をばその価値尺度にかなうように動かしてゆこうとする意欲によって裏づけられているはずでなければならぬ。実定法に対するかような意欲的・主体的な働きかけをともなわない法の理念は、いかに崇美の空に
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:01
高く輝いていようとも、現実の人間生活から見て、ほとんど何の意味をももたないといわなければならないのである。したがって、ここでとらえようとする法の理念は、実定法に内在し、実定法を動かし、実定法を通じてそれ自らを実現していくものである点で、ヘエゲルの説いたようなイデエに
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:08
近いということができる。ヘエゲルのイデエは、現実を形成する力であり、現実の歴史的発展の原動者である。ヘエゲルの説いた法の理念は、実定法から隔絶した自然法ではなく、低い実定法の殻を破っては、たえず高い実定法の段階の中に顕現していくところの法の理性的な根拠なのである。(s.10)
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:11
※この個所を読んでいて、興味深いと思ったのは、アリストテレスの「形相」(eidos)が、私の理解するところの、ヘーゲル哲学における「概念」そのものに他ならないことである。おそらく、この著者である尾高もそのことは理解していたに違いない。しかし、尾高は、概念や理念、本質といった
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:29
哲学的用語についての正確な理解を欠いているために、「概念」というところに「本質」という語を用いたり、また、「概念」と「理念」の相違について無自覚であったりする。・・・今になって、あらためて尾高のこの著書に眼を通そうと思ったのも、最近の一部の護憲派憲法学者たちが「立憲主義」の
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:56
思想的な根拠として、法哲学者の尾高朝雄を著作を引き合いに出すようになっているらしいことを知ったことがきっかけだった。しかし、いずれにせよ、あらためて読んでみて、尾高がかなりのレベルでヘーゲルの法哲学を踏まえて論述しているらしいことがわかった。最近の日本においては
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 00:58
(単に私が無知であるだけなのかもしれないが)、ヘーゲル哲学に通じた憲法学者、法哲学者を知らない。かって学生時代に読んだ時には、ヘーゲル哲学については全くに無理解だったので、尾高の思想的な哲学的な背景についてまで思い及ぶはずのなかったのも当然だった。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:03
ただ、アリストテレスの「形相」(eidos)と、ヘーゲル哲学における「概念」との関係についても、尾高の論述などから、その類比に気づいて、メモしておくくらいにはなった。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:05
以下、尾高のヘーゲル批判がつづく。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:18
>> <<
けれども、ヘエゲルは、理念と現実との結びつきを強調するのあまり、両者の”完全な一致”を認めることとなった。理性的なものは現実的であり、現実的なものはそのままに理性的であると見るにいたった。かような考え方は、
現実を無差別に理念と同一視することによって、現実に対する批判の精神を消耗せしめる。現実の制度をあるがままに理性の要求に合致するとみなすことによって、人間の努力の効率を冷笑する保守主義に堕する。あるいは、逆に実定法を破る力の暴虐をも、自由の理念の自己実現の一過程として
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:19
是認するという結果に陥る。ヘエゲルの法哲学が国家絶対主義となり、国際法を否定する覇道実力国家思想となったのも、理念と現実の懸隔を認めぬ一元論の方向に走りすぎたために外ならない。理念を現実の中に宿るというのは真理であるが、さればといって、現実そのものが理念であると
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:24
考えるのは誤謬である。理念が現実の中に宿るというのは、現実を動かそうとする人間の努力の中にその姿を現すということである。現実は、かような努力によって、絶えず理念に接近しては行くが、人間の努力によって動かされてゆく現実が、そのあるがままの状態において
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:32
飽和した理念であるということはありえない。現実が飽和した理念であるならば、現実に対する人間の努力とか、改善・向上の意欲とかいうようなものは、およそ無用の贅物となってしまう外はない。歩々に理念を実現しつつある現実は、理念からの距離によって評価されるべき対象であり、
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:33
その意味で理念そのものではない。現実に内在して現実を動かす理念は、かくして同時に、現実に対する”価値尺度”としての役割をも演じるのである。(s.11)
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:41
※
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 01:50
以上の尾高のヘーゲル批判は、ヘーゲル哲学そのもののもつ根本的な欠陥をつくものか、あるいはヘーゲルを誤解した亜流哲学者に対してのみ通じる批判なのか、は検討されるべきだろう。その意義はある。いずれにせよ、これまで主として行われた批判はマルクス主義の立場からのものだったから。
以下、尾高はヘーゲル哲学批判を行なったのちに、結論として次のよう述べる。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:00
>> <<
法の窮極に在るものは、かように現実と不即不離の関係に立つところの法の理念なのである。これを”不即の関係”から見るならば、法の理念は現実そのものではない。法の理念が現実に対する評価の基準と
なるのはそのためである。しかし、これは”不離”の関係から眺めるならば、法の理念は現実の彼岸にあるものではない。法の理念が現実に内在し、現実の法を作り、現実の法を動かす力として働いているのである。かように、現実そのものとは一定の隔たりを保って現実の彼方にあるところの理念が、
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:05
しかも、なおかつ、現実に内在して現実を動かす力となるためには、法の理念と現実との間に立って、両者を媒介する何者かがなければならない。両者の間のこの媒介者をとらえない限り、理念と現実とを隔絶せしめるプラトン的の二元論に帰着するか、現実をそのままに理念と見る
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:11
へーゲル的一元論に帰依するか、そのいずれかの外に道はないのである。そこで、法の窮極に在るものを探ねることは、転じて、「法の理念と現実とを媒介するもの」は何であるかを求めることとなってくる。(s.11)
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:12
※
ここまで読んできて、あらためて確認できたことは、尾高のヘーゲル哲学批判が
独り相撲になっていることである。その根本的な原因は、尾高が「概念」と「理念」の区別を、その差異を正しく理解していないことからきている。尾高はヘーゲル哲学を精確には読めてはいない。また、「現実に内在し、現実の法を作り、現実の法を動かす「力」として働くもの」について、
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:37
尾高はそれを「理念」と呼んでいるが(s.11)、ヘーゲルによれば、それは「理念」ではなくて「概念」である。「理念」とは「概念」が実現して存在と融合したものをいうのである。尾高はこの「理念」と「概念」の区別が分かっていない。また、法哲学で語られてよく知られている
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:38
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という表現についても、ヘーゲルは「理性的なもの」が「現実的である」と述べているのであって、ヘーゲルいう「現実」の正確な意味を尾高は理解してはいない。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:38
尾高の誤解している「現実」などは、ヘーゲルに言わせれば「単なる現象」に過ぎないものである。そんなものをヘーゲルは「現実」とは呼ばない。
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 02:38
尾高朝雄 著『法の窮極に在るもの』目次
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 18:26
緒論 法の窮極に在るものは何か
一 考察の出発点
二 法の本質・法の形相・法の理念
三 法の理念と現実とを媒介するもの
第一章 自然法の性格
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 18:26
一 法を超越する法
二 自然法の内容
三 自然法の機能
四 自然法理念の政治化
五 国民主権主義と国権絶対主義
「憲法一箇条の改廃は国家の相貌を一変せしめるに足りる。法の人間生活におよぼす影響力は、まことに測り知れないものがあると言わなければならない。・・・自由か統制か。どこまでの自由の制限か、どこに統制の限界を置くべきか。これまた国民経済上の福祉と至大の関係を有する重要な論点である。a
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 19:36
更にすすんで、国家という制度そのものの是非・善悪となると、問題は一層複雑・重大となる。国家は一つの法制度である。国家は法によって組織された国民生活共同体である。この巨大な法制度については、古くから氷炭相容れざる両極端の考え方が対立している。すなわち、積極の尖端には、b
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 19:45
・・・・しかしながら、それらの問題は、一方ではいかに特殊化した研究を必要とするものであっても、その根本において同じ「法」の問題であるという一般性を有する。したがって、その解決のためには、他方また一般化の方向にむかっての、すなわち、法一般の根本原理の方向にむかっての、
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 20:03
突っ込んだ考察をすすめてゆかなければならない。・・・概念や論理の綺麗ごとを以って片づけることのできないという意味である。単なる法の形態論ではなく、法の存立の根本にまでさかのぼる論究のことである。実定法に対する評価の最高の基準は何であるか。実定法を動かし、実定法を破り、法を破ったd
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 20:08
あとに新たな法を作り出す力はいかなるものであるか。それは法とは異なる力であるのか、あるいはやはり法的な力であるのか・・・・要するに、それは「法の窮極に在るもの」の論究である。・・法一般の窮極に在るものにまでさかのぼる論及を行うことは、e
— review (@myenzyklo) 2017年10月31日 - 20:15
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