人民に押し付けるコミンテルンの軍閥、官僚とは、実は全く同一の土壌に生育した二本の木にほかならない。」
— Tukihosi (@soratine) 2017年3月11日 - 16:54
(ibid.,s.19 )
故猪木正道氏の著作である『増補 共産主義の系譜――マルクスから現代まで』(角川文庫、昭和59年増補版初版)の読書ノートの続き。
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 22:59
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「最後にマルクスの革命思想からわれわれが学ぶべき最大のものは何であるかを考えてみたい。私見によれば、それはマルクスが人間の自己疎外、ないし物化
(Verdinglichung)という現代の根本的病弊に注目し、その根源が生産手段の私的財産性にあることを暴露し、生産手段の社会化によって、人間の自己疎外を揚棄しようとした点である。マルクスの体系には数多くの誤謬が含まれていることはいまさらくり返すまでもないが、それらの誤謬にも
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:03
かかわらず、人間の自己疎外とその揚棄とに関するマルクスの根本認識はけっしてまちがってはいない。現在社会に対する批判と社会改革への要請は、人間の自己疎外に関するマルクスの透徹した把握にまで沈潜するのでなければ、浅薄皮相なものにとどまる。これを怠った社会改革の原理が、どのような誘惑に
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:08
とらわれ、どのような迷路に落ち込むかは、後述するラッサールの運命によって如実に示されるであろう。」(ibid.s70)
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:15
※ここで猪木正道は、まさしく「ミイラ取りがミイラになっている」。「人間の自己疎外に関するマルクスの透徹した把握」とは「生産手段の社会化によって、人間の自己疎外を
揚棄する」ことであるようだが、抽象的な「生産手段の社会化」それ自体は、「人間の自己疎外の揚棄」にはつながらないこと、それを必ずしも保証するものではないことを、マルクスのみならず猪木も自覚していないことである。この共産主義の空想的で楽天的な「理想主義」が、現実においては自由の抑圧に
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:26
反転する必然性が、マルクスのみならず、その批判者であろうとした猪木にも洞察されていない。
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:27
「彼が三月革命をめぐる政治的、経済的危機に際しても、ほとんど政治経済の問題に振り向こうとしなかった根因はここに存する。もちろんルードヴィヒが関心をもったのは、祈祷や賛美歌の教会宗教ではなく、人間性の本質に根ざす宗教的心情であったことは断るまでもあるまい。教会宗教は政治や経済に
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:53
無関心などころか、歴史が示すとおり保守反動勢力と不可分に結託している場合が多く、それ自体強力な政治的経済的勢力である。」 (ibid.s 76)
— review (@myenzyklo) 2017年3月11日 - 23:55
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